小佐々村(読み)こさざむら

日本歴史地名大系 「小佐々村」の解説

小佐々村
こさざむら

[現在地名]小佐々町矢岳免やだけめん楠泊免くすどまりめん平原免ひらばるめんたけ木場免こばめん葛籠免つづらめん黒石免くろいしめん小坂免こさかめんうす浦免うらめん田原免たばるめん西川内免にしかわちめん

現小佐々町全域を村域とする。東部の小佐々浦を挟んで南に臼ノ浦、北に西川内、西川内の西に楠泊・矢岳、西川内の東に田原平原葛籠黒石などがあり、臼ノ浦の東に小坂が続く。寛元二年(一二四四)四月二三日の関東下知状(山代文書)に肥前御家人の「小佐々太郎重高」がみえており、当地を名字の地とする者であろう。山代固後家尼と益田通広の相論に際して寛元元年に証言を行っており、峰上(西念)血縁にあたる人物とされる(「松浦家脈属譜」松浦史料博物館蔵)。同四年頃、峰上の所領とされる屋岳・楠泊をめぐって「こさゝのた郎」が相論を起こしている(同年八月一三日「源上譲状案」伊万里文書)。正和三年(一三一四)彼杵そのき日那ひな浦の小佐々守童丸は惣検を打止め年貢・済物を弁済していないと同庄雑掌より訴えられ、敗訴している(同年一二月二二日「鎮西下知状」東福寺文書)。嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領目録(正慶乱離志裏文書)に同三年北条政頼の下知を受けた人物として小佐々三郎入道がみえる。永徳四年(一三八四)には「こさゝ備前守」が下松浦一揆に加わったと思われるが、花押はみられない(同年二月二三日「下松浦住人等一揆契諾状案」山代文書)。明徳三年(一三九二)七月五日の下松浦住人等一揆契諾状案(同文書)に備前守勤とあるので、小佐々備前守と同一人物であろう。永享三年(一四三一)小佐々小治良が地内の永徳えいとく寺に梵鐘ほか祠堂田・山林を寄進した(永徳寺梵鐘銘文)。田原の臨済宗永徳寺は永仁五年(一二九七)開山と伝え、同三年近江佐々木氏の一族佐々木小四郎が当地に来住して小佐々氏を称したとしており(「永徳寺由来記」寺蔵文書)、同氏との由縁がうかがえる。田原の沖田おきた(一一二メートル)山頂部にある段築・土塁などを遺構とする沖田城跡は同氏の居城とされるが、未詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報