大垣内村(読み)おおがいとむら

日本歴史地名大系 「大垣内村」の解説

大垣内村
おおがいとむら

[現在地名]広陵町大字三吉みつよし

馬見うまみ丘陵東端、赤部あかべ村の南に立地する。古代の散吉さぬき(讃岐)郷の南部、平尾ひらお村・大塚おおつか村・安辺あべ村を中心とした中世の細井戸ほそいど庄の北部になる。小字見立山みたてやまは「延喜式」(諸陵寮)の「三立みたち岡墓 在大和広瀬郡」とある高市皇子墓、また小字バクヤは同じく「牧野まきの墓 太皇太后之先和氏 在大和広瀬郡」とある高野新笠の牧野墓所在地と伝えている(大和志ほか)。バクヤ(現地発音はバッキヤ)牧野まきの音読。「和州旧跡幽考」は「俗に莫邪ばくやの墓といひて、莫邪の剣のふること共かたりつたふ。いとおぼつかなし。おもふに牧野は牧野ぼくやのよみ侍れば、片言にして莫邪といひつたふるならし。かたち円丘也」とある。


大垣内村
おおがいとむら

[現在地名]旭町杉本すぎもと

矢作川の支流阿摺あすり川に注ぐ月畑つきばた川に沿い、東は太田おおだ村・押手おしで村、南は小沢こぞう村・月畑村、西は沢尻さわじり村、北は九沢くざわ村・源重げんじゆう村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。現主要地方道土岐―足助線が中央を南北に通る。大垣内城跡が比高約二〇メートルの尾根突端にある。三方湿地でめぐらし、三つの郭を設けている。付近の所々に宝篋印塔・五輪塔がある。

寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。元禄一四年(一七〇一)当時、松平乗成領。


大垣内村
おおがいとむら

[現在地名]和歌山市大垣内

那賀なが郡に属し、北は満屋みつや村、西は吐前はんざき村。村内には小名東垣内・藪の内・馬継などがあり(続風土記)、大和街道が通る。中世は金峯山領小倉おぐら庄に含まれたと考えられる。慶長検地高目録によると高九八〇石余。小倉組に属し、慶応四年(一八六八)の御毛見町分差出帳(藤田家蔵)によれば家数七〇で地士一・帯刀人一・庄屋一・肝煎三・本役四四・半役一二・下役四・無役四、人口男二〇九・女二〇四、牛二七。


大垣内村
おおがいちむら

[現在地名]上月町大垣内

西本郷にしほんごう村の西に位置し、東西に切れている谷間を幕山まくやま川が東流、同川沿いを古代―中世の美作道が通る。慶長国絵図に大垣内村とみえる。もと西本郷村に含まれていたが、貞享元年(一六八四)に高二七七石余で分離・独立(「本郷・大垣内分村覚」石堂家文書)元禄郷帳には古くは西本郷村の注記付でみえ、高二五六石余。


大垣内村
おおがいとむら

[現在地名]松阪市大垣内町

蓮花寺れんげじ村の東にあり、西に田園地帯が広がり、北は出間いずま村、南は飯野いいの保津ほうづ村に至る。かつて「腹村」と称したという(五鈴遺響)。天文一五年(一五四六)書写の神服部内戸納帳(「神服大神部・神部家文書」神宮文庫蔵)には大垣内の地名がみえ、大垣内西浦畠の記載がある。「大垣内兵衛大夫」「大垣内左衛門次郎」「大垣内殿」といった人名もみられる。


大垣内村
おおがちむら

[現在地名]西脇市大垣内

寺内てらうち村の東、加古川西岸に位置する。「おおがいち」ともいう。慶長国絵図には「大かい一村」と記載される。寛永一六年(一六三九)幕府領(兵庫県史)、享保一五年(一七三〇)から寛保二年(一七四二)まで大坂城代土岐家領(同一九年「土岐頼稔知行目録」土岐家文書など)、幕府領を経て延享元年(一七四四)大坂城代堀田家領(「天保校訂紀氏雑録」日産厚生会佐倉厚生園蔵)、同三年三卿の一橋領となる(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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