新庄村(読み)しんじようむら

日本歴史地名大系 「新庄村」の解説

新庄村
しんじようむら

[現在地名]大朝町新庄

宮迫みやざこ村の南に位置し、南東流する可愛えの川に沿って集落が開ける。東は岩戸いわど、南東は中山なかやま、南は舞綱もうつな(ともに現千代田町)など、西は大朝、北は宮迫のほか、石見国亀谷かめだに(現島根県邑智郡瑞穂町)の諸村に接する。村域内西宮にしみやしようには先土器時代の遺跡がある。地名は観応三年(一三五二)閏二月九日付の足利直冬下文(吉川家文書)に「安芸国大朝新庄」とみえ、大朝本庄に対する新庄に由来する。

慶長六年(一六〇一)の検地により高八三二・四石に決定し、以後変更はない。明知・給知入交じりで、免の上り詰は五・〇五、下り詰は三・二、秋免は〇・四四であったが、明知分は安永二年(一七七三)、給知分は宝暦七年(一七五七)より定免四・七四となった(国郡志下調書出帳)。「国郡志下調書出帳」によると、農業を中心とする村で、商業を兼ねる者が少々、浮過が二割ほどいた。入会野山四・腰林六三・雨池八・用水井手二五などがあり、「郷中都四方晴レ日請も宜敷御座候得共、雪深寒所殊更肥草不自由之村柄ニ諸作共出来兼候困窮仕候、水の懸りは宜しく旱之愁は稀ニ御座候」という。村内に酒造場一軒のほか、花屋弥左衛門経営の釘地鍛冶屋二軒があり、同鍛冶屋は職場二・本小屋一・下小屋一(竈数一二)・炭小屋二・従事人数五六(男三八・女一八)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]新庄村 野土路のとろ高下こうげ中谷なかや浦手うらて大原おおばらたきしり田浪たなみふたばし戸島としま田井たい田中たなか鍛冶屋かじや幸町みゆきまち上町かみまち本町ほんまち中町なかまち東町ひがしまち西町にしまち旭町あさひまち茅見かやみ大所おおところ梨瀬なしぜ

新庄川流域の山間の狭い盆地や河岸段丘上(標高四〇〇―五〇〇メートル)に新庄をはじめ土用どよう・二ッ橋・野土路・浦手・梨瀬・鍛冶屋・茅見・戸島などの集落が散在する。東の美甘みかも(現美甘村)から当村に入り、四十曲しじゆうまがり峠を越えて、西方伯耆国板井原いたいばら(現鳥取県日野郡日野町)へ抜ける出雲往来が通り、宿駅が置かれた。年未詳の小田名字在所注文写(熊野那智大社文書)に「にし見かも新しやう」とみえ、小田氏一族の宍戸氏がいた。

正保郷帳によれば田高七〇五石余・畑高二四四石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳によれば改出高四五一石余・開高一九三石余。同二年の家数二四九、うち寺四・社人二・山伏一・木地挽(野土呂山)一一・本百姓六三・家来六六・名子一〇二(「古事名物書上帳」新庄村史)


新庄村
しんじようそん

面積:六七・二六平方キロ

郡の西端部に位置し、東は美甘みかも村・湯原ゆばら町、西は阿哲あてつ大佐おおさ町と鳥取県日野ひの郡日野町、南は大佐町、北は川上かわかみ村と鳥取県日野郡江府こうふ町。北境の尾根に毛無山けなしせん(一二一八・四メートル)かな谷山やせん(一一六四・一メートル)朝鍋鷲あさなべわしせん(一〇七八メートル)がそびえ、この尾根が中間付近で南へ大きく支脈を張出し、村の中央部に笠杖山かさつえせん(「作陽誌」は笠築山)が三角形の秀峰を現し、南の村境にはすずりせん(九四二メートル)、東の村境にはみみスエせん(一一〇二・九メートル)、西の村境にも九〇〇メートル級の山稜が連なる。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]盛岡市新庄町・山王町さんのうちよう小杉山こすぎやま東新庄ひがししんじよう一―二丁目・加賀野かがの三丁目・天神町てんじんちよう住吉町すみよしちよう・新庄など

盛岡城下の東方、志家しけ村の東に位置する。中津なかつ川左岸からいわ(三四〇・五メートル)を経て、同川上流の阿部館あべたて(一二一八・四メートル)閉伊へい郡と接する東西に長い村。新城とも記す。寛永一八年(一六四一)の検地高三四三石余(「検地高目録写」県立図書館蔵)正保国絵図には新城村、一五二石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高四〇〇石余とあり、七ヵ年平均の免は四ツ二分六厘三毛。元禄十郡郷帳による〆高は田二九八石余・畑一一八石余、松雑木立山がある。「邦内郷村志」では蔵分三四三石余・給分六〇石余、馬八八。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]美浜町新庄

みみ川上流の山間部に立地。南は近江国高島たかしま(現滋賀県高島郡)、東は越前敦賀郡(現敦賀市)。西に雲谷くもだに山があり、村内を新庄道が通る。粟柄あわがら松谷まつやあさおく寄積よりつみ田代たしろ馬場ばんば岸名きしなの八つの小名がある(若狭郡県志)。浅ヶ瀬の西の小字大日だいにちとよぶ平地に弥生時代の大日原だいにちはら遺跡がある。

常神つねかみ(現三方町)の寛正四年(一四六三)棟札銘に「奉上葺造営常神大菩薩御宝殿一宇、別当廿八所住宝泉坊定栄、板弐百一間代十六貫文、新庄ヨリ出、耳本庄政所山口一向ニ御奉加也、番匠手間百四九人」とあり、現神子みこ神社(現三方町)の応仁二年(一四六八)棟札銘に「御賀尾浦十禅師宮上葺事」として葺板七〇間のうち「新庄板四十間代三貫五百文」とある。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]御津町新庄

新庄川中流の小盆地に開け、南は伊田いた村、東は寺部てらべ村に接する。年未詳一一月二六日の宗之書状(難波文書)によれば、「平岡新庄東方領家矢嶋分」の所務を某宗之が行っていた。また松田氏系譜(岡山市史)によると、松田元貞(文明一六年没)が「赤坂郡平岡郷ノ内新庄村西谷」へ移り住んだという。戦国時代末期には当村西谷にしだににあった西谷城に天神山てんじんやま(現和気郡佐伯町)城主浦上宗景の臣、松田彦次郎元貞・同久兵衛尉が在城した。久兵衛尉はのち岡山城主宇喜多直家・秀家に仕え、関ヶ原の戦後当村に帰農したという(吉備温故秘録)。伊田村境にあった松撫まつなで城には文明年中(一四六九―八七)に浦上伯耆守基景が在城したとも(同書)、また明石飛騨が在城したともいう(備陽国誌)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]竹原市新庄町

竹原東野たけはらひがしの村の東に位置し、その村境を賀茂川が南流する。東は豊田郡善入寺ぜんにゆうじ南方みなみがた(現本郷町)の両村。賀茂郡に属した。村域の東と北は山が多く、集落は賀茂川沿いに集まるが、東の山からは末宗すえむね松橋まつはし椋原むくはら、北から葛子かずらこなどの支流が流れ、賀茂川に入る。「和名抄」所載の都宇つう郷の地とされ、山陽道の都宇駅は、村内横大道よこだいどう付近に比定される。その付近には後期古墳が多い。

古代の都宇郷の地はのちに京都下鴨社領都宇庄となるが、賀茂川西側の竹原東野を中心とする一帯を荘域とする同社領竹原庄が本庄とよばれたのに対し、都宇庄は新庄の名でよばれた。貞応二年(一二二三)六月日付の安芸竹原荘地頭得分注文写(小早川家文書)に「給田五町内 本庄三丁 新庄弐丁 給畠五町内 本庄三丁 新庄弐丁」とみえ、承久の乱後に都宇竹原庄の地頭職をも得た小早川茂平の領有するところとなったが、正嘉二年(一二五八)茂平の四男政景が都宇竹原庄などの地頭職を分与され竹原小早川家を分立、村内の木村きむら城に拠った。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]西区新庄町・大宮おおみや一―三丁目・大芝おおしば一―三丁目・大芝公園おおしばこうえん三滝みたき町・三滝本みたきほん町一―二丁目・三滝山みたきやま

西は二〇〇―三〇〇メートル級の山々が連なり、東は太田おおた川が南流し、対岸は安芸郡牛田うした(現東区)・広島城下白島はくしま(現中区)である。北隣の長束ながつか(現安佐南区)から入ったやす川が村の中央やや西寄りを流れ、南西の打越うちこし村に出る。南東は楠木くすのき村に接する。中世は桑原くわばら新庄に連なる地域にあたり、しだいに「新庄」の地名に定着したものと考えられる。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]田辺市新庄町

神子浜みこのはま村の東に位置し、北は上万呂かみまろ村。村域のうち現文里もり港北端から以南は田辺湾に面する。海岸線は南北四キロに及ぶリアス海岸で、潮の干満は穏やかである。村の北部を熊野街道大辺路が通り、道沿いに若一王子(現大潟神社)がある。集落は熊野街道沿いのほか、海辺が製塩適地であることから入江沿いに点在する。縄文・弥生時代のとりたに洞窟遺跡をはじめ、弥生・古墳・平安各時代の遺跡が多く発見されている。南北朝時代には神子浜の北東端にあった大手おおて城攻め(田辺口合戦)の際、当地も戦場になっている(小山文書)

慶長検地高目録によれば村高六二一石余、小物成五斗一升。正徳五年(一七一五)の田辺組新田御検地書上帳(田所文書)によると、一五町余(塩屋敷一・五町余、田地一〇・六町余、畑地二・八町余)の新田が開発されており、安永二年(一七七三)の田辺組大指出書上帳(同文書)によると田畑面積五五町余、うち田地は約八割を占める。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]庄原市新庄町

三上みかみ郡の西部、西城さいじよう川支流の戸郷とごう川源流域に位置する。戸郷川水源の和田わだ池に注ぐ新庄川両岸に耕地が広がり、周辺部は丘陵地。北東は宮内みやうち村、南は是松これまつ村と接し、村内を出雲路と備中故路が通る。村域北部の永宗ながむね遺跡、中心部の西山にしやま遺跡に住居跡・古墳などが分布する。永宗遺跡では古墳時代の住居跡四・建物跡三が発掘され、高さ六〇センチの甑などが出土。西山遺跡では土壙一(弥生時代前期)・住居跡二(弥生時代―古墳時代)・建物跡のほか甑などが出土している。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]新庄町大字新庄

大屋おおや村東方、柿本かきのもと神社(柿ノ本村)埴口はにくち(北花内村)西方に所在する布施ふせ郷内最大の集落。村東方を高野こうや街道が南北に走り、いわゆる街道集落として発達した。慶長六年(一六〇一)桑山一晴の入部により陣屋の城下町として町割され、当初新城しんじよう村と称し、のち新庄村と改称した。慶長郷帳の村高五一・七七八石。天和二年(一六八二)桑山一尹の改易で以後幕府領となる。元禄郷帳によると村高は七二・三一二石、文化郷帳によると村高は八一・一七五石と漸次増加している。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]東大阪市新庄・新庄西しんじようにし新庄東しんじようひがし新庄南しんじようみなみ

若江郡に属し、南は本庄ほんじよう村。大和川付替えまでは、北から西に新開しんかい池があり、南西を菱江ひしえ川、東方を吉田よした川が流れる低湿地であった。明和七年(一七七〇)の村指出明細帳(岩崎太郎家文書)によると、当村が開かれたころ新開海という大沼があり、沼の築洲に百姓の居屋敷を定めていたが、数度に及ぶ大和川の洪水のため新開囲堤の内へ引越した。古屋敷に続く大沼・葭島も新庄村領で、作間に大沼で菱・海老・雑魚などをとって生活をし、葭小物成や運上銀を納めてきた。宝永二年(一七〇五)の新田開発で大沼や囲堤外の地は鴻池こうのいけ新田となったが、その分の高六石余は減じられなかったという。


新庄村
しんしよむら

[現在地名]綾部市新庄町

小畑おばた川が東流しさい川と合流する地域にあり、集落は東西に開けた谷間に散在する。東北は物部ものべ村、南はくり村、西はなか村・鍛冶屋かじや村。小畑四箇の一。集落西北の谷間の字を奥新庄おくしんしよという。綾部藩領。

古代の小幡おばた(和名抄)の地に比定され、その新荘として設けられたものである。「玉葉」承安五年(一一七五)五月一二日条に、

<資料は省略されています>

と記される。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]備前市新庄

畠田はたけだ村の南に位置し、南西は服部はつとり(現邑久郡長船町)。久安二年(一一四六)吉井川の洪水で損失した香登かがと庄作田の便宜作田として、靫負ゆげい・服部両郷(現長船町)の二〇町八反が繰入れられたが、同地を服部新庄と称した(長寛三年七月四日「太政官牒案」根来要書)

慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に「新城村」とみえ、物成六二五石余・夫米三七石余。寛永備前国絵図には新庄村とあり、寛永五年(一六二八)の検地では朱印高一千二六三石のほか改出高一〇五石余(貞享元年「和気郡高目録」池田家文庫)。享保六年(一七二一)には田畠八一町四反余、家数一七九・人数八四四、池一ヵ所(備前記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千九七五石余、蔵入と家臣池田兵庫ほか一一人の給地。


新庄村
しんじよむら

[現在地名]福知山市字新庄

福知山盆地の西部、豊富とよとみ谷口近くに位置する。東はあつ村、西は半田はんだ村、北は奥野部おくのべ村・和久寺わくでら村、南は笹尾さそお村。村の東部は安尾やそお山麓の台地で、本庄ほんじよ集落がある。本庄からは弥生式土器が出土、安尾山東麓からも同種土器が出ているので関連が考えられる。

新庄から西方半田・今安いまやす一帯にかけては耕地の地割や田地名などに古代条里制の遺構が顕著である。地名は荘園に関係すると考えられ、台地上に立地する本庄がより古く開発された地と思われる。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]岡山市新庄上しんじようかみ

日差ひさし山の北部、東の津寺つでら村とは足守あしもり川を挟んで対する。古くから開けた村で、「備中誌」に「嘉(慶カ)応永の開き高あらん、中昔深井土庄といひし時も有」とある。寛永備中国絵図では高二千七一石、旗本花房領。枝村として作山つくりやま村と黒角くろずみ村が記される。正保備中国絵図では二千一二一石、黒住村と記され鴨庄かもしよう(加茂村)へ編入している。正保郷帳では二千七一石で一千八二九石が花房領、二四二石が旗本榊原領(花房氏の分家)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]柳井市大字新庄

東は柳井・古開作こがいさく、西は余田よた、南は宇佐木うさなぎ(現熊毛郡平生町)の各村に接する。北部の大平おおひら(三一四メートル)、南の赤子あかご(二三〇・六メートル)両山の麓の間に平地が広がる。岩国藩領柳井組に属した。

新庄の名は、「正任記」文明一〇年(一四七八)一〇月二三日条に「防州楊井新庄」とみえるのが早い。村内にある積蔵しやくぞう寺の文書に、永禄六年(一五六三)二月一六日付、天正五年(一五七七)一月二四日付の毛利元定・毛利元政の安堵状があり、新庄は毛利氏の知行であったことがわかる。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]米子市諏訪すわ

八幡やわた村の南西にあり、集落西の背後には長者原ちようじやはら台地が南から延びる。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「新庄」とあり、二〇〇貫が吉川氏領。新庄は相見あいみ(八幡庄)の新庄の意味とされる。近世には八新庄やしんじようとも称され、奥会見おくあいみ阿賀あが庄の新庄村、通称阿新庄あしんじよう(現西伯町)と区別される。藩政期の拝領高は三七六石余、本免は三ツ六分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高九三二石余、竈数八一。


新庄村
しんじよむら

[現在地名]三原町八木笶原新庄やぎやはらしんじよう

国分こくぶ村の北西部の平地にある。西端を円行寺えんぎようじ(三原川)が北流する。もとは鳥井とりい村新庄原といい(味地草)、明暦元年(一六五五)以前に鳥井村より分村、同年の新庄村新開検地帳(三原郡史)が残る。天保郷帳では高一八石余。反別戸数取調書によると反別三〇町八反余、高一八八石余、うち蔵入高一三〇石余・給知高五八石余、給人は馬部吉太郎ら三人。ほかに片山紋左衛門上知分一石余・池守役山口甚左衛門拝領分一石余。家数六〇・人数二六〇。水利として大久保おおくぼ村にある門前もんぜん池を利用する(味地草)。八木組に所属し、御留野。庄屋は天保五年(一八三四)書写の庄屋名面帳(高田慎二氏所蔵文書)では木下久右衛門。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]夢前町新庄

神種このくさ村の東、夢前川上流域に位置する。延文五年(一三六〇)の造内宮役夫工米未納庄々注文写(教王護国寺文書)に「かやの庄しんしやう、ほんしやう、あ□の」とあり、新庄は賀屋かや庄を構成する一地域であった。文和元年(観応三年、一三五二)九月二六日および一二月八日、当地で赤松則祐軍と南朝軍の合戦があった(同二年三月日「安積盛兼軍忠状」安積文書)。永正三年(一五〇六)三月一四日の足利義澄御内書写(室町家御内書案)には料所として賀屋新庄とある。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]杵築市日野ひの

八坂やさか川の下流域にあり、野田のだ村の台地より北方に突き出た丘陵地と、西方の台地と緩傾斜地に挟まれた新庄平野をもつ。北方には八坂川を挟んで広い広瀬ひろせ平野が広がる。文永七年(一二七〇)の宮清弥勒寺領注進状抜書案(石清水文書)に「同弥勒寺領西宝塔院家庄(中略)八坂新庄 大神新庄」とあり、豊後国弘安田代注進状に「新荘四十五町」とある。八坂庄の本庄に対し新庄といわれたと思われる。小倉藩元和人畜改帳の木付きつき廻のうちに村名がみえ、高二九二石余、家数一一・人数四三(うち百姓一一・名子七・下人一)、牛一〇・馬一。元禄郷帳では高二四四石余。幕府領生桑いくわ村から取水する八坂川南用水路によって平地部は灌漑され、台地は溜池の水を利用した。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]新旭町新庄

安曇あど川左岸にあり、東は東川原ひがしかわら村、北は北畑きたばた村。もとは滝平たきだいらと称し、安曇川南岸の西万木にしゆるぎ(現安曇川町)内にあったが、水害のため現在地に移ったという(高島郡誌)。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)の「新庄十郷」の内に「同新庄分」とあり、高一三八石余。寛永石高帳に高七四〇石余とあり大溝藩領とあるが、旗本渡辺茂領の誤記か。


新庄村
しんしようむら

[現在地名]相良町新庄

地頭方じとうがた村の南に位置し、東は駿河湾に面する。南は白羽しろは(現御前崎町)。シンゾウともいう。中世には相良新庄あるいは単に新庄とよばれた。延文五年(一三六〇)一一月八日の宗忍避状(冷泉家古文書)に「相良本新両庄」とあり、沙弥宗忍は両庄の領家職三分の一の下地を一〇年間冷泉為秀に与えた。現愛知県西尾市の養寿ようじゆ寺が所蔵する応永二年(一三九五)三月一八日の雲版銘に「相良新庄法恩庵常住」とある。


新庄村
しんじようむら

壱岐国にみえる中世の郷村。谷江たにえ川流域の新城田しんじようた原や北触きたふれ唐人原とうじんばるは文永の役ではモンゴル軍との合戦場となり、東触ひがしふれの新城神社は文永の役で自刃した守護代平景隆を祀り、その墓標という自然石がある。同社東手の新城橋畔の千人塚は戦死者を埋めた地と伝える。勝本町域には新城のほか上陸地・古戦場・城跡・千人塚・墓地など元寇に関連する伝承地が分布するが、なかでも当地に遺跡が多いことから、文永の役新城古戦場として県指定史跡となっている。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]分水町新長しんちよう三島さんとう寺泊てらどまり町新長

北西を島崎しまざき川が北東に流れる微高地にあり、東は三島郡長新ちようしん村、西は同郡小豆曾根あずきぞね(現寺泊町)。近世は三島郡に属した。大正一一年(一九二二)大河津おおこうづ分水(新信濃川)完成により東西に分断され、同分水が村を貫流することとなった。寛永九年(一六三二)三島郡よし(現寺泊町)の丸山庄左衛門により開発されたと伝え、初め庄左衛門しようざえもん新田と称された。正保国絵図では高一一四石余、幕府領に属する。慶安二年(一六四九)村上藩領となる。明暦三年(一六五七)の検地で二四五石余を検出(文政七年「巡見使案内帳」原田文書)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]和歌山市新庄

那賀なが郡に属し、大垣内おおがいと村の東にある。村内は小名大橋おおはし松本まつもと一里山いちりやま深田ふかたに分れる。一里山には一里塚があり、名草なくさ松島まつしま村の一里塚から二里の距離にある(続風土記)。建長六年(一二五四)七月六日付紀伊国守護代・惣官請文案(御影堂文書)の紀伊国御家人沙弥順宗の肩書に「小倉新庄」とみえる。正応二年(一二八九)一二月日付湯浅宗重跡本在京結番定文案(崎山家文書)によると、小倉おぐら新庄の在地領主が五番に「他門」として在京勤仕にあたっており、この時期湯浅氏の一族並として位置づけられていることが知られる。のち建武元年(一三三四)二月日付金峯山宿老紛失状証判(金峯神社文書)に小倉本庄の記載に続けて「同新庄供弐口」とあり、大和金峯山領であったことが知られる。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]久美浜町字新庄

川上谷かわかみだに川中流部西側山麓に集落をつくる。北は品田ほんで村、南は須田すだ村に接し、東は広い耕地を挟んで芦原あしわら村に向き合う。

中世には河上かわかみ新庄の地。近世に入り慶長検地郷村帳に高五一一・一三石「新城村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で五七五石余となる(天和元年宮津領村高帳)

小字砂田すなだ大西おおにし神社(祭神伊弉冊尊)が鎮座する。東の新谷にいだに村はもと同社の氏子で、新庄から分離したといわれる。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]八女市新庄

たいら村の西に位置し、北部を花宗はなむね川が流れる。天正一五年(一五八七)一一月二八日の立花統虎宛行状(矢賀部家文書/旧福岡県史下)によれば、矢賀部大和守(鎮勝)に庄屋給として「溝口庄新庄村」の二町六反余が与えられている。なお建武三年(一三三六)豊福とよふく原での合戦で相良忠頼とともに戦った「当国新庄三郎」は当地を名字の地にする者であろうか(同年九月二〇日「相良忠頼軍忠状」相良家文書/南北朝遺文(九州編)一)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]里庄町新庄・新庄グリーンクレスト

北は口林くちばやし村のまる山、東は六条院西ろくじよういんにし(現鴨方町)、南は毛野無羅けのむら山・茶臼ちやうす山山塊が大島中おおしまなか(現笠岡市)との境をなす。慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)で浅口郡大島新庄村の二千四五三石余は伊予今治藩藤堂高虎の采地となった。元和元年(一六一五)摂津麻田藩領になったとき大島村より分村して新庄村になったという(岡山県農業土木史)。寛永備中国絵図では麻田藩領で高七三八石余、村の西が入江に面している。正保郷帳でも同藩領、枝村に八俣やつまた浜中はまなか村がみられる。八俣は転訛して、現在はまとと呼称されている。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]大東町新庄

田中たなか村の東、あか川両岸にあり、その支流山尾やまお川が合流する付近に位置する。正保国絵図に村名がみえる。承応二年(一六五三)の検地帳によると田方二〇町八反余・分米二八四石余、畑方四町九反余・分米四〇石余、屋敷数一七、うち御引屋敷三(御蔵屋敷一)。元禄十年出雲国郷帳では高四〇六石余、寛文四年(一六六四)の本田高三九一石余。「雲陽大数録」では高四〇〇石。「郡村誌」によると戸数八二(うち社二)・人数三九一、民業は農業六四戸・工業一三戸・商業二戸、物産は生人参一三〇貫目・干瓢一五貫目・楮一〇〇貫目・櫨実四〇〇貫目・薪一千六四五貫目・木綿五〇〇反。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]鳥屋町新庄

二宮にのみや川を挟んで大槻おおづき村の東方にあり、同川の東を流れる支流石塚いしづか川沿いの台地に位置する。羽坂はざか村から北東に向かう西往来が二宮川を渡って当村に入る。加賀藩領で、慶長一一年(一六〇六)の新庄村田畠高帳(新庄区有文書)によれば総高一千一七八俵余。元和三年(一六一七)の検地帳(同文書)では高六〇一石余。正保郷帳によると高六二二石余、田方三一町三反余・畑方一〇町一反余。承応二年(一六五三)の役棟一五(「棟役調」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(新庄区有文書)の高六三六石、免五ツ四歩、小物成は苦竹役二七匁、鳥役二匁(出来)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]近江町新庄

顔戸ごうど村の南、箕浦みのうら村の東に位置し、南は天野あまの川を挟んで西円寺さいえんじ村。室町将軍足利義詮に仕えた新庄俊名は源頼義に仕えた秀郷流藤原季俊の末裔で、俊名が当地に住したことから新庄を姓としたという(寛政重修諸家譜)。戦国期には今井一族が居住し、しろうち的場まとば付近が屋敷地であったと推定される。寛永石高帳に村名がみえ高二九三石余、彦根藩領(幕末に至る)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]松江市新庄町

上宇部尾かみうべお村の北に位置し、東は中海に臨む。北は本庄ほんじよう村。中世は長海ながみ新庄の庄域であった。慶長九年(一六〇四)の検地帳写によると、反別四八町一反余・分米六〇一石余、屋敷数六〇(うち本百姓三七)。元禄十年出雲国郷帳によると高七三六石余、寛文四年(一六六四)には本田高七二三石余・新田高四石余。「雲陽大数録」では高七二〇石。「郡村誌」によると田八五町六反余・畑一八町六反余・宅地五町二反余、戸数一一七・人数五四一、牛五、日本形荷船一二があり、物産は櫨実二千貫目・松蕈一〇〇貫目・柿二千五〇〇貫目・薪三万貫目、民業は農業九四戸・工業九戸・商業八戸。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]大和郡山市新庄町

伊豆七条いずしちじよう村の東方に所在。環濠集落。慶長・元和・寛永の各郷帳には鉾立ほこたて村とあり、元禄郷帳にも「古は鉾立村と申候」と注記する。慶長郷帳には村高五六二・三四石。旗本山口(勘兵衛)氏領。文政一〇年(一八二七)の人別御改帳では五一軒二三〇人(男一一四、女一一六)とみえ、明治四年(一八七一)の未歳宗門御改帳では家数六二(高持五二、無高一〇)清照せいしよう寺旦那二七八人、極楽ごくらく寺旦那一二人、人数二九〇人(男一五八、女一三二)とある(奥田家文書)


新庄村
しんじようむら

[現在地名]守山市新庄町

笠原かさはら村の北、野洲やす川北流と南流の間に位置。南の川辺かわべは「輿地志略」には「新庄村の端村」と記される。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に「参百六拾五石弐斗四升 はし村」とみえる。寛永石高帳によれば新庄村として高四四六石余、うち幕府領四〇一石余・大溝藩領四四石余。慶安高辻帳によれば田一三二石余・畑一八四石余、永荒一二九石余。元禄郷帳では大溝藩・旗本斎藤氏の相給となっており、天明村高帳では高五五五石余のうち前者が六五石余、後者が四八九石余。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]西伯町やまと

阿賀あが村の南、法勝寺ほつしようじ川中流右岸、手間てま山の支脈大平おおなる山の西麓に位置する。新荘とも記した。同じ会見あいみ郡の八幡新庄やわたしんじよう(現米子市)と区別して阿賀新庄村ともいう。拝領高は八一〇石余、本免は四ツ三分。藪役銀三匁一分が課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高五〇〇石余、竈数二九。「伯耆志」では家数三〇・人数一三〇、林七町七反余。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]篠山市新荘しんじよう

大熊おおくま村の東に位置する。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「新庄村」とみえ、高五五三石余。正保郷帳では田高五〇〇石・畠高五三石。元禄郷帳では高五六三石余。「丹波志」では安行あんぎよう庄のうちで、高七一一石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では新庄組で、家数八三・人数三七五。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]網野町字新庄

下岡しもおか村の西南、高橋たかはし村の西方に位置する。東と西を山に挟まれる谷間の村。

慶長検地郷村帳に三八八・三一石「新庄村」とみえる。宮津藩領として推移したが、寛文六年(一六六六)幕府領となり、同九年一部を残して宮津藩領に復した。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]大野市新庄

赤根あかね川の右岸にあり、東北は大野城下、南は同城下枝村篠座しのくら村。村名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえ、高四一六・三五一石とある。正保郷帳によると田方三四六石余・畠方七〇石。


新庄村
しんじようむら

[現在地名]寺泊町新長しんちよう西蒲原にしかんばら分水ぶんすい町新長

新庄村(分水町)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新庄村」の意味・わかりやすい解説

新庄〔村〕
しんじょう

岡山県北西部,鳥取県に接する村。 1889年村制。出雲街道の四十曲 (しじゅうまがり) 峠の登り口にある宿場町として発展。国道 181号線が通じ,現在も街村の姿をとどめる。明治期以来植林が盛んで,新庄牛として知られる和牛の飼育も行われる。面積 67.11km2。人口 813(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

事典 日本の地域遺産 「新庄村」の解説

新庄村

(岡山県真庭郡新庄村)
日本で最も美しい村」指定の地域遺産。
新庄村は岡山県の西北端に位置する。面積は67.10k【m2】で、うち91%を山林が占める。古くは山陰と山陽をつなぐ出雲街道の宿場町として栄えた。産業は、林業・水稲特にヒメノモチ米生産が中心となっている。1872(明治5)年の村政施行以来一度の合併もなく、大字のないのが特徴

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

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