日本歴史地名大系 「新庄村」の解説
新庄村
しんじようむら
慶長六年(一六〇一)の検地により高八三二・四石に決定し、以後変更はない。明知・給知入交じりで、免の上り詰は五・〇五、下り詰は三・二、秋免は〇・四四であったが、明知分は安永二年(一七七三)、給知分は宝暦七年(一七五七)より定免四・七四となった(国郡志下調書出帳)。「国郡志下調書出帳」によると、農業を中心とする村で、商業を兼ねる者が少々、浮過が二割ほどいた。入会野山四・腰林六三・雨池八・用水井手二五などがあり、「郷中都而四方晴レ日請も宜敷御座候得共、雪深寒所殊更肥草不自由之村柄ニ而諸作共出来兼候而困窮仕候、水の懸りは宜しく旱之愁は稀ニ御座候」という。村内に酒造場一軒のほか、花屋弥左衛門経営の釘地鍛冶屋二軒があり、同鍛冶屋は職場二・本小屋一・下小屋一(竈数一二)・炭小屋二・従事人数五六(男三八・女一八)。
新庄村
しんじようむら
新庄川流域の山間の狭い盆地や河岸段丘上(標高四〇〇―五〇〇メートル)に新庄をはじめ
正保郷帳によれば田高七〇五石余・畑高二四四石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高四五一石余・開高一九三石余。同二年の家数二四九、うち寺四・社人二・山伏一・木地挽(野土呂山)一一・本百姓六三・家来六六・名子一〇二(「古事名物書上帳」新庄村史)。
新庄村
しんじようそん
- 岡山県:真庭郡
- 新庄村
郡の西端部に位置し、東は
新庄村
しんじようむら
- 岩手県:盛岡市
- 新庄村
盛岡城下の東方、
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄川中流の小盆地に開け、南は
新庄村
しんじようむら
- 広島県:竹原市
- 新庄村
古代の都宇郷の地はのちに京都下鴨社領都宇庄となるが、賀茂川西側の竹原東野を中心とする一帯を荘域とする同社領竹原庄が本庄とよばれたのに対し、都宇庄は新庄の名でよばれた。貞応二年(一二二三)六月日付の安芸竹原荘地頭得分注文写(小早川家文書)に「給田五町内 本庄三丁 新庄弐丁 給畠五町内 本庄三丁 新庄弐丁」とみえ、承久の乱後に都宇竹原庄の地頭職をも得た小早川茂平の領有するところとなったが、正嘉二年(一二五八)茂平の四男政景が都宇竹原庄などの地頭職を分与され竹原小早川家を分立、村内の
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
- 和歌山県:田辺市
- 新庄村
慶長検地高目録によれば村高六二一石余、小物成五斗一升。正徳五年(一七一五)の田辺組新田御検地書上帳(田所文書)によると、一五町余(塩屋敷一・五町余、田地一〇・六町余、畑地二・八町余)の新田が開発されており、安永二年(一七七三)の田辺組大指出書上帳(同文書)によると田畑面積五五町余、うち田地は約八割を占める。
新庄村
しんじようむら
- 広島県:庄原市
- 新庄村
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
若江郡に属し、南は
新庄村
しんしよむら
- 京都府:綾部市
- 新庄村
古代の
と記される。
新庄村
しんじようむら
- 岡山県:備前市
- 新庄村
慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に「新城村」とみえ、物成六二五石余・夫米三七石余。寛永備前国絵図には新庄村とあり、寛永五年(一六二八)の検地では朱印高一千二六三石のほか改出高一〇五石余(貞享元年「和気郡高目録」池田家文庫)。享保六年(一七二一)には田畠八一町四反余、家数一七九・人数八四四、池一ヵ所(備前記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千九七五石余、蔵入と家臣池田兵庫ほか一一人の給地。
新庄村
しんじよむら
- 京都府:福知山市
- 新庄村
福知山盆地の西部、
新庄から西方半田・
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
- 山口県:柳井市
- 新庄村
東は柳井・
新庄の名は、「正任記」文明一〇年(一四七八)一〇月二三日条に「防州楊井新庄」とみえるのが早い。村内にある
新庄村
しんじようむら
- 鳥取県:米子市
- 新庄村
新庄村
しんじよむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
- 大分県:杵築市
- 新庄村
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんしようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
- 福岡県:八女市
- 新庄村
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
- 奈良県:大和郡山市
- 新庄村
新庄村
しんじようむら
- 滋賀県:守山市
- 新庄村
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
新庄村
しんじようむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報