小倉村(読み)おぐらむら

日本歴史地名大系 「小倉村」の解説

小倉村
おぐらむら

[現在地名]宇治市小倉町〈おい大池おおいけ奥畑おくはた神楽田かぐらでん春日森かすがもり久保くぼ新田島しんでんじま寺内てらうち天王てんのう中畑なかはた西浦にしうら西大池にしおおいけ西畑にしはた西山にしやま蓮池はすいけ・東山・堀池ほりいけ・南浦・南堀池・山際やまぎわ〉・ひらき町・南陵なんりよう

巨椋おぐら池の東岸に位置し、北は槇島まきのしま村、東は宇治郷、南は伊勢田いせだ村。開町とよばれる部分は、村域の南方に位置する飛地で、寛文九年(一六六九)村民によって開拓されたところという(上林又兵衛支配地絵図)

村域は、古代の巨倉おおくら庄もしくは小巨倉こおおくら庄にあたると考えられ、「和名抄」にみえる久世郡竹淵たかふち郷は村域東部に比定される(宇治市史)。村内北寄りには春日明神を勧請した巨椋おぐら神社があり、「延喜式」神名帳にみえる「巨椋オホクラ神社」に認定されているが、藤原氏とかかわった荘園の地であることを示唆するものといえる。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]畑野町小倉

南の丸山まるやま村・河内かわち村を経て通称トネ(小倉峠)から北の長谷はせ村までのまつさき道に沿った大村。俗に小倉三〇〇軒といい、鳥越とりごえ野田のた岩根沢いわねざわ中才なかさいみや河内かわち西にしだいら八瀬松やせまつこまかみなどの小集落が小佐渡山中にひろがる。これとは別に、南のほうから上小倉・中小倉・下小倉とする分け方も用いられ、明治以後は行政上も甲・乙・丙と三分された。中世までは木地師やたたら師および鍛冶用の炭を焼く者や運搬用の牛飼いたちを主とする山村であったという。江戸初期の佐渡奉行による新田開発政策で、寛文九年(一六六九)より俗に千枚田とよばれる大開田が進んだ。元禄七年(一六九四)の検地では田一三四町四反余・畑一〇八町六反余(佐渡志)。「佐州巡村記」では戸口は二四六軒・一千一三三人。御林は字城か尾・たたらか尾・鍋巻・だけがをに四ヵ所ある。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]若葉区小倉町・小倉台おぐらだい一―七丁目・桜木町さくらぎちよう千城台北ちしろだいきた一丁目・千城台西ちしろだいにし一丁目など

川野辺かわのべ新田の南東にあり、西はみやこ川上流の坂月さかつき川を境に加曾利かそり村。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に勝明寺(未詳)領分として小倉とみえ、田一丁五反・分銭七五〇文であった。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳に村名がみえ、高二九〇石、五町の道普請を負担。天正期(一五七三―九二)から旗本赤井領であったとされ、寛永二年(一六二五)知行宛行状では村内三三五石余が同領。地内真浄しんじよう寺に同氏二代の墓がある。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]福島市小田おだ

山田やまだ村の南に位置し、東は新田野目あらたのめ村・平沢ひらさわ村、南は水原みずはら村。にごり川が谷底平野を形成し、集落は同川両側の山地沿いに分布。米沢に至る街道が通る。永正一三年(一五一六)四月二三日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、田手方から購入した信夫しのぶのうち「小倉林屋敷一宇」が佐藤孫右衛門に安堵されており、同地は当地のこととも推定される。大永八年(一五二八)二月牧野常仲は信夫庄小蔵之郷の赤間居屋敷一宇を当地の陽林ようりん(現曹洞宗)に寄進している(同月二〇日「牧野常仲寄進状」陽林寺文書)。天文七年(一五三八)の段銭古帳には信夫名倉しのぶなぐら方のうちとして「おくら」とみえ、段銭は一一貫一五〇文。翌八年五月二九日の伊達稙宗寄進状案(伊達家文書)によれば、稙宗は亡き子玄蕃丸のために「志のふをくらの内せきてん、ねんく六百文の所」などを昌伝庵に寄進している。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]幸区小倉

南は鶴見つるみ川を境とし、北は北加瀬きたかせ村・鹿島田かしまだ村、東は塚越つかごし村、南はさき(現横浜市鶴見区)、西は小倉用水池を境として南加瀬みなみかせ村に接する。籠田かごだ池頭いけがしら池尻いけじりなどの小字がある。鹿島田村でりよう用水から分岐し、塚越村との境を通って江ヶ崎村に至る町田まちだ堀と、苅宿かりやど(現中原区)から北加瀬を経て小倉用水池に至り、鶴見川へ注ぐ悪水落しの小倉用水が通る。小倉用水池は村の西方境を南北に占めるおよそ八町八反歩の池であったが、昭和二七年(一九五二)以降埋立てられ現存しない。

小田原衆所領役帳に太田新六郎「拾五貫文 稲毛小倉三橋分」とある。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]名田庄村小倉

槙谷まきたに村の東北方、堂本どうもと村・久坂ひさざか村・三重みえ村の西方に位置し、村内をみなみ川が流れる。名田庄の他村に比べて田地が多く、農業を主とした。中世には名田庄下庄の知見ちみ村に含まれていたと思われるが、大徳寺文書からは確認できない。

正保郷帳によれば田方一〇一石余・畠方一三石余。江戸時代、小浜藩領の村では毎年の年貢率は検見か土免によって定められたが(→三重村、明治二年(一八六九)当村惣百姓中から藩に出された願書(下中家文書)に「当村之義ハ当巳年ヨリ来ル未之年迄三ケ年之間、土免ニ御請合申上置候処、当年者、夏中雨ふり続キニ而、格別不作仕、土免ニ御請合難申上難渋ニ付、自由ケ間敷儀恐入奉存候得とも、破免ニ被仰付為下度、村中相談之上、奉願上候」とあって、選択の余地があったようである。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]吉岡村小倉

西・南は滝沢たきざわ川を挟んで上野田かみのだ村、東は八木原やぎはら(現渋川市)、北は有馬ありま(現同上)と接する。東西二三町余、南北四町余の細長い村落である。かつて長岡ながおか(現榛東村)などとともに一村をなしていたが、のちに野田村(上・下野田村)とともに長岡より分離し、その後野田村から分れ一村となったといわれる。元和五年(一六一九)の安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では高一四七石余、田方九町六反余・畑方七町五反余で高崎藩領。元禄郷帳では旗本長谷川領などの三給。安政二年(一八五五)の渋川村組合村柄書上帳(堀口文書)によると元禄郷帳と同じく旗本の三給。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]印西市小倉・小倉台おぐらだい木刈きかり牧の木戸まきのきど大塚おおつか

和泉いずみ村の西、手賀てが沼南東部の下総台地上に位置し、北は亀成かめなり川下流に面し、谷津が南北に入り込む。竹袋三宝たけふくろさんぼう院の応仁元年(一四六七)銘の如意輪観音像胎内納経奥書(利根川図志)に「埴生西 郷内小倉村」とみえ、三宝院祐善が本願となって納経しており、当地はその料用に充てられたものか。慶長七年(一六〇二)に検地を受け、反別は田畑屋敷合せ一一町余(印旛郡誌)。寛政七年(一七九五)の村明細帳(武藤家文書)によれば本田高は一六四石余で、延宝七年(一六七九)新田検地で新畑三八石余、宝永四年(一七〇七)同じく新々田畑一石余が打出され、高二〇四石余となる。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]三郷村大字小倉

黒沢くろざわ山の麓、黒沢川・鳴沢なるさわ扇状地の扇頭に立地。村の中央に比高九〇メートルのむろ山があって松本平を一望のもとに見渡すことができ、松茸の産地でもあったので、松本城主の来遊地。南小倉からは弥生式土器・土師器、黒沢川左岸・東小倉・北小倉・室山むろやま付近からは縄文式土器が多数出土。黒沢川沿岸及び山麓は沢水・湧水に恵まれていた。南小倉に小字馬口がある。

初見は、長享二年(一四八八)諏訪下社の春秋之宮造宮之次第(諏訪大社上社文書)に「一かさなし西牧小倉」とあり、西牧のうちに所属している。江戸時代に室山・東小倉・室町にかけて松本藩の御林、明治以後官林があった。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]枚方市小倉東おぐらひがし町・小倉町・渚東なぎさひがし町・渚内野なぎさうちの四丁目・上野うえの三丁目・三栗めぐり二丁目・黄金野こがねの一―二丁目・北片鉾きたかたほこ

淀川左岸の沖積低地に位置する。村内をきた川が西に流れる。交野かたの郡に属し、北はさか村、西は渚村。「日本紀略」弘仁八年(八一七)二月二〇日条に、嵯峨天皇の交野行幸のとき「施左為、百済、粟倉三寺各綿一百斤」とみえ、この地に「粟倉寺」があったと考えられるが、その跡地は不明。もとまき郷のうちで渚村とともに粟倉おぐら郷と称した。また東小倉村とも称したが、のち小倉村となった(大阪府全志)


小倉村
おぐらむら

[現在地名]城山町小倉

村域の北より東に相模川が流れ、対岸の北は上川尻かみかわしり村、東は高座こうざ大島おおしま(現相模原市)、村域北部をくし川が東流し、相模川に流入している。

近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世(のち下総関宿藩)領、貞享元年(一六八四)幕府直轄領、元禄一一年(一六九八)より宝永二年(一七〇五)まで関宿藩領、以後再び幕府直轄領となり文政一一年(一八二八)幕府直轄領(二四石余)と旗本鷲巣領(二五二石余)の二給となる。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]青垣町小倉

北端を佐治さじ(加古川)が流れ東は佐治村、南は岩屋いわや山。播磨への往還が通る。「丹波志」は本村を小倉、もりを枝郷とする。天正三年(一五七五)島津家久は但馬に向かう途中「小倉の町茶屋の彦三郎」の所で一泊しており(家久君上京日記)、同一〇年六月には桑山重勝が「佐治庄小倉町」に禁制を掲げている(内閣文庫蔵諸家文書纂)。佐治に続いて町場が形成されつつあったと思われる。高源こうげん寺の門前村として栄えたという。


小倉村
こくらむら

[現在地名]基山町大字小倉字永田ながたかど小山おやま川東かわひがし川西かわにし古寺ふるてら大城おおぎおよび通称木山口きやまぐちの一部

西は筑後国御原みはら西島にしじま(現福岡県小郡市西島)に接する。北部は低丘陵地であるが、村内を高原たかはら川が流れて耕地が開け、集落は右岸の段丘上に立地する。村の北部丘陵の伊勢いせ山は古代の集落および祭祀遺跡、その隣の寄合よりあい山・城上じようのえ丘陵は弥生遺跡であるが、先土器時代の石器、縄文土器も出土した。


小倉村
こぐらむら

[現在地名]富津市豊岡とよおか

中倉なかぐら村の南、みなと川上流域に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二七三石。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に記載があり、佐貫藩領。支配領主の変遷は田原たばら村と同様。元禄郷帳では高三二六石余で、幕末も同様。宝永七年(一七一〇)当時嶺上みねがみ山の山守に当村の伊右衛門(一人半扶持)がいた(菱田家文書)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数九四。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]河原町小倉

水根みずね村の南にあり、山道が北西の山上やまがみ村、南東の智頭ちず美成みなり(現用瀬町)へ続く。支村として今西いまにしがあり、当村および山上村一帯は独活うど(宇戸谷)といわれた(因幡志)。拝領高九四石余、本免六ツ六分。片山氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数四五、産物は鼻紙・蓆・竹・栗・柿・独活・蕨。うち蓆は名産独活蓆として知られる。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一二九石余、竈数四四。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]婦中町小倉

井田いだ川中流左岸と呉羽山くれはやま丘陵の東側斜面の間に位置し、東は熊野道ゆやんど村、西は大坪おおつぼ村。かつて御幸山大常だいじよう寺という寺があり、小倉百人一首にある「小倉山峰のもみぢば心あらば今ひとたびのみゆきまたなん」の和歌にちなみ、小倉山から小倉と名付けたという(婦負郡志)。正保郷帳では島田しまだ村や熊野道村を含んで高一千六石余、田方六五町六反余・畑方一町三反余。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]愛東町小倉

愛知川右岸、平尾ひらお村の南東に位置する。中世には小椋おぐら庄の一部であったと推定される。集落の北背後の愛知川河岸段丘上に、戦国期に小倉氏が在城していた小倉城跡がある。小倉氏は京極氏の家臣の重鎮で、その版図は永源寺谷をはじめ蒲生がもう佐久良さくら(現同郡日野町)鯰江なまずえ庄内に及び、愛知川河岸段丘上に多くの城砦を築いていた。小倉氏の発祥地とされる小倉城は、現在跡地の西側大半が農地に転用され、また最近道路拡張や小グラウンドの開発により一部が破壊されているため、旧状は知りがたい。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]夜久野町字小倉

北は夜久野ヶ原、西と南は但馬国(現兵庫県)、東は高内たかうち村とすえ村に接する樹枝状に入り込んだ谷間の村。「丹波志」によると枝村として「奥小倉、原小倉」があり、「原小倉ト云ハ夜久野見渡シノ石ヨリ二国明神ノ正面ニ見透ス、但馬国境」で、奥小倉おくおぐらは「辰巳に当り七八丁隔」っていた。高二六〇石(同書)

小倉村には応仁の乱に東軍細川方として夜久野ヶ原合戦で戦死した(応仁記)という八木やぎ(跡地は現船井郡八木町)城主丹波守護代内藤孫四郎の塚がある。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]朝日町小倉

天王てんのう川の支流越知おち川流域一帯、糸生いとう谷のほぼ中央にある。北は分水嶺を越えて笹谷ささだに村の枝村四ツ合よつあい(現清水町)。「越前地理指南」は枝村としてこうたに大門だいもん羽丹生はにう田嶋たじま片山かたやま柳町やなぎまちを記し、現在は香ヶ谷垣内がなくなり、小倉垣内と合わせて六垣内に分れる。寛正二年(一四六一)正月吉日付の大谷寺左右方互契約状(越知神社文書)に「小倉」とみえ、越知山大谷おおたに寺の坊領であったことが知られる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では伊藤いとう郷に含まれたと考えられる。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]南那須町小倉

蛇行しながら南東流するあら川右岸に位置し、対岸北から東にかけては藤田ふじた村・大和久おおわぐ村。村の中央を荒川支流長者ちようじや川が南東流し、丘陵地の谷間に開けた地に本郷ほんごう的場まとば塩谷入しおやいり芦生沢あしおけざわなどの集落がある。江戸時代、天和元年(一六八一)から貞享三年(一六八六)までを除いては烏山藩領であったと考えられる(貞享二年「用水堰争論につき願書」菊池茂文書など)。寛永一三年(一六三六)の堀親良遺領村目録(神奈川県堀直敬文書)では高二五一石余、ほかに高五八石余の小倉新田がみえる。


小倉村
こごえむら

[現在地名]須玉町小倉

まだら山の南西麓、須玉川の左岸段丘上、標高五五〇―六五〇メートルに位置。南は大蔵おおくら村。コゴエの訓は「小越の小倉」の略という。慶長検地帳には西向にしむき村とあり、斑山の南北の尾根の東を東向村といい、西を西向村といったという(甲斐国志)。上小倉・中小倉・下小倉の三集落からなる。永禄四年(一五六一)の番帳の七〇番に「小蔵の禰き」が神取かんどり(現明野村)の禰宜とともにみえ、当地の八幡神社の神官とされる。天正一七年(一五八九)一一月一九日の伊奈忠次知行書立写(記録御用所本古文書)によれば、かつて津金衆であった小尾監物(祐光)は、所領として津金つがね郷内に三八八俵余のほかに、「小倉西田郷」内に六一三俵七合一勺を認められている。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]常滑市金山かなやま・小倉・西之口にしのくち

西は大野おおの村・西之口村・宮山みややま村に接する。村内に前山まえやま村・西之口村の田地があり、当村の飛地(主として池)久米くめ村・前山村、南粕谷みなみかすや(現知多市)にある(常滑市誌)。「寛文覚書」によれば、概高一千九〇石余、田四八町七反九畝余・畑一四町九反余、家数一二〇、人数七七四、全村蔵入地。

慶長一三年(一六〇八)の知多郡小倉村御縄打水帳写が現存(「平野家文書」小倉天神蔵)


小倉村
おぐらむら

[現在地名]養老町小倉・西小倉にしおぐら

大跡おおあと新田の南、養老山地から流出する小倉谷が形づくる扇状地が平地に移る地にある。津屋つや川が南流し、集落はその右岸にある。伊勢東街道が通り、北は鷲巣わしのす村。近世初頭の一一月二三日付元勝書状(玉井家文書)に小倉とみえ、津屋川舟運の湊であった。慶長郷帳に村名がみえ、高四五八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳でも同藩領で田二四八石余・畑二一三石余、山年貢一石余、新開五石余、池役金一朱。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]須賀川市小倉

塩田しおだ村の南、阿武隈川東岸の阿武隈高地中の山間に立地し、東部にひがし(七六一・一メートル)、東境に蓬田よもぎだ(九五二・二メートル)がある。集落は山襞の南斜面に点在。宇津うづ峰の南西麓に埋平うずだいら集落がある。村名は建武年間(一三三四―三八)宇津峰城で病死し当地に葬られた長義親王の称(小倉宮)に由来するとの説がある(「小倉村村誌」須賀川市史資料)


小倉村
おぐらむら

[現在地名]五城目町内川小倉うちかわおぐら

内川川の支流小倉川に沿い、四方を小丘陵に囲まれた山村。南は山を越えて山内さんない村、小倉川に沿って東に下れば湯野又ゆのまた(現湯ノ又)黒土くろつち村に至る。西部山地は山本郡との郡境で種沢たねざわ(現山本郡琴丘町)に接する。「六郡郡邑記」に「小倉村 (中略)山本郡(種カ)沢村と秋田郡小倉村との境ハビノ沢長根より谷地倉の西の長根迄峰分水落次第」とある。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]建部町小倉

西と南は曲流する旭川に面し、東は新庄しんじよう(現御津町)に、北は土師方はじかた村と山を境に接する。赤坂あかさか郡に属し、寛永備前国絵図に高一三三石余とあり、枝村としてぐち村があった。「備陽記」では田畠九町八反余、家数四四・人数三〇一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば、直高二二一石余ですべて日置元八郎の給地。


小倉村
おぐらむら

現八幡東区尾倉おぐらを遺称地とし、同所を含む一帯に比定される中世の村。応安五年(一三七二)六月日の吉河経見軍忠状(吉川家文書/南北朝遺文(九州編)五)に「小倉」とみえる。同軍忠状によると、吉河経見や毛利元春らは今川了俊の鎮西下向に馳せ参じ、同年二月一〇日の多良倉・鷹見嶽合戦で戦功をあげた後、当地や宗像など諸所の陣の警固にあたっている。応永二年(一三九五)には惣領麻生義助の所勘に従わない小倉・上津役こうじやく以下の輩の所領は義助が知行することが許されており、麻生氏庶子で、当地を名字の地とする小倉氏がいた(同年六月六日「足利義満袖判御教書」麻生文書/筑前麻生文書、以下断りのない限り同上)


小倉村
おくらむら

[現在地名]阿蘇町小倉

東は山田やまだ村、西は綾野あやの村、南は綾野村のうち下原しものはる村に接する。小蔵とも記される。元徳元年(一三二九)から始まる阿蘇社造営に当地は料木などの負担をしている(同二年二月二三日「阿蘇社造営料木注文写」など、阿蘇家文書)。建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(同文書)では、下田常陸介が沙汰する西郷の小郷のうちに「一所十町 小倉郷」とみえる。


小倉村
こくらむら

[現在地名]春日市小倉一―七丁目・大谷おおたに一―九丁目・弥生やよい一―七丁目・小倉東こくらひがし一―二丁目・若葉台西わかばだいにし一―七丁目・大和町やまとまち一―四丁目・光町ひかりまち一―四丁目・宝町たからまち一―四丁目・伯玄町はくげんちよう二丁目・小倉

春日村の北西、春日丘陵の中央部に位置する。宇佐弥勒寺領小倉庄の遺称地。小早川時代の指出前之帳では小倉村は田四〇町九反余(分米三六九石余)・畠四町三反余(分大豆二二石)。慶長七年(一六〇二)の検地高は七〇七石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高七六六石余、家数七〇・社二、人数三一八(田圃志)


小倉村
おぐらむら

[現在地名]村大字小倉

だんの山西北方の渓谷に立地する。天平勝宝七年(七五五)の板蠅杣施入勅案(東大寺文書)板蠅いたばえ杣の四至がみえ、「東限名張河 西限小倉倉立小野」と記す。西境の小倉が当村地域とされる。貞和三年(一三四七)の興福寺造営段米并田数帳(春日神社文書)には「小蔵庄 四町六段大 段米一石四斗 号宮方進納 悉難渋」とみえる。慶長郷帳の村高一八六・七七八石、幕府領(代官間宮三郎右衛門)。元和五年(一六一九)以降津藩(藤堂高虎)領。「宗国史」に戸数四五、人口二一一、祠に八王子、寺に高尾たかお寺・観音寺・神宮寺、馬四とある。


小倉村
こぐらむら

[現在地名]九戸村小倉

小倉岳の東麓丘陵上に位置。東縁は瀬月内せつきない川に臨む。南は伊保内いぼない村、北は長興寺ちようこうじ村。晴山はれやま観音林かんのんばやし(現軽米町)から葛巻くずまき(現岩手郡葛巻町)に至る街道が東縁を縦貫し、街村が形成される。天保八年(一八三七)の仮名付帳は「ヲクラ」と訓じている。天正六年(一五七八)桜庭弥惣兵衛は長興寺に半鐘を寄進したという(九戸郡誌)。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(参考諸家系図)に村名がみえ、当村五二石余が馬場三之丞の知行地となった。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]楠町小倉

鈴鹿川本川の河口の南岸、北一色きたいつしき村の北東に位置する。文禄五年(一五九六)土御前つちごぜ神明社の棟札に「小倉之郷」とみえ、願主として「地下舟乗衆」とある。江戸時代を通じ桑名藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば、塩浜と新田があった。元禄郷帳には枝郷として「丑之新田」を載せるが、これは万治四年(一六六一)丑之うしの新田の神明社棟札に「字氏子中 小倉村新田」とみえるものである。当村の東、海岸近くにあたる。文政七年(一八二四)の小倉村・丑之新田差出帳(徳川林政史蔵)では、当村の田方は五二町四反余、畑は一四町一反余、丑之新田分は田一五町四反余、畑二町六反余であった。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]大宮町小倉

久慈川の東岸にあり、北は塩原しおばら村。「水府志料」に「久慈川(ママ)部垂村への渡場此所に在」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「小倉村」とみえ、「水府志料」によると戸数およそ一〇七。「箱樋長七間、幅八尺五寸、高四尺八寸程あり。山沢より出る小流ありて、塩原村より来れる用水江を遮る故に、箱樋をもつてかけこし、江水を流す」と記される。

寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)によると一向宗宝常ほうじよう寺がみえ、石沢いしざわ常弘じようこう寺門流であった。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]上山市小倉

蔵王山噴火による泥流台地にあり、西は権現堂ごんげんどう村。小蔵とも書く。木地師の小椋氏の住んだ村といわれるが、当地には京都小倉山(現京都市右京区)に似ているので名付けられたという伝承がある。縄文中・後・晩期の小倉遺跡、枝郷棚木たなぎに縄文中期の棚木遺跡がある。正保郷帳では田方三三五石余・畑方一三八石余。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(三浦文庫)では高四六六石余、うち新田二七石余、反別は田二七町二反余・畑二二町七反余で、銭二貫七〇三文・薪六六駄・炭一五俵が課された。ほかに諸運上物として殺生札(熊捕り)一枚六〇〇文、木札一〇枚・一枚につき金一歩ずつ、萱札一一枚・一枚につき五〇〇文ずつ上納している。


小倉村
こぐらむら

[現在地名]伊自良村小倉

東を伊自良川が南流し、南は四日市場よつかいちば村、東は大森おおもり村。もと伊自良村のうちで、熊野神社の境内社である若宮神社の慶長一二年(一六〇七)の棟札に、「伊自良之内小倉村」とある。東光寺古文書(東光寺蔵)は近藤信濃守知行所と記すが、近藤信濃守政成は元和四年(一六一八)没し、その子重直は山県郡内の遺領を継がなかったので、このとき幕府領になったと思われる。元禄郷帳では高六二六石余、幕府領。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば田三二町一反余・畑一四町四反余、家数六八、人数男一二九・女一二一。


小倉村
こくらむら

[現在地名]川内市小倉町

水引みずひき五代ごだい村の西にあり、北は高城たき麦之浦むぎのうら村、西は水引郷草道くさみち村、南は川内川を隔てて薩摩郡高江たかえ郷高江村。乙須おとす(現小倉川)が中央部を南流して川内川に入る。古くは五代村に含まれ、天保八年(一八三七)に分村したとされる(鹿児島県地誌)。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳・天保郷帳・「三州御治世要覧」などに村名はみえず、旧高旧領取調帳に小倉村とあり、高五八七石余。


小倉村
こくらむら

[現在地名]美濃市小倉

板取いたどり川下流域の右岸にあり、南部は山で、北部の河岸平坦地に集落がある。牧谷まきだに八郷の一つで、東は御手洗みたらい村。慶長郷帳に小蔵村とみえ、村高四一石余・山年貢三石余。元和五年(一六一九)幕府領から尾張藩領となり幕末に至る。正保郷帳では畑高四一石余・紙舟役一石余・山年貢七石余。明暦覚書では概高一〇二石余、人数一三三、馬二〇。「濃州徇行記」によれば、畑一六町四反余・見取場九反余・山二一町四反余(百姓控一一町七反余・村中入会草山九町七反)、家数六七・人数三九〇、馬五、潰百姓が多く、南西が山で日当りも悪い。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]湖北町小倉

大安寺だいあんじ村の北東に位置。東を高時たかとき川が南流し、集落を北国街道が通る。永禄一一年(一五六八)一一月吉日の竹生島納帳(東浅井郡志)に「小倉」とみえる。慶長五年(一六〇〇)九月一六日の徳川家康禁制(南部文書)に村名がみえ、寛永石高帳によれば高六六一石余で山城淀藩領。元禄郷帳では大和郡山藩領。享保九年大和郡山領郷鑑によれば慶長七年検地による反別は田三三町八反余(うち上田三二町九反余)、畑屋敷四町二反余(うち上畑一町四反余・屋敷二町二反余)で、ほかに新田二斗余の記載がある。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]福崎町八千種やちくさ

鍛冶屋かじや村の東に位置し、飯盛いいもり山東側の谷間に立地する。神東じんとう郡に属し、東は加西郡別名べつめ(現加西市)。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ庄村」と注記され、高二一四石余。


小倉村
おぐわむら

[現在地名]広見町小倉

広見川下流域に位置する。北は広見村、南は上川原淵かみかわらぶち村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「小倉村 柴山茅山、川有」と村名がみえる。吉田藩領。

太閤検地の石高は四二〇石で、正保検地では六五九石三斗一升四合となっている。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]舞鶴市字小倉

祖母そぼ谷と若狭街道を結ぶ交通上の要地に位置する。集落は志楽川に注ぐ小倉川の谷に沿って散在している。

中世には志楽庄春日部かすかべ村の地。天正九年(一五八一)当村の但馬谷城主市村出羽守、大久保城主大久保播磨守は、細川藤孝・忠興父子に滅ぼされたと伝える。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]八郷町小倉

恋瀬こいせ川の支流小倉川沿いにあり、北は上曾うわそ村、西は吉生よしう村。江戸時代は旗本領で元禄郷帳の村高は二九三石余、幕末は旗本斎藤氏領三七八石余(各村旧高簿)。「新編常陸国誌」には「旧下小倉村ト呼ビシヲ正保、元禄ノ間、下ノ称ヲ除ク」とある。


小倉村
こぐらむら

[現在地名]小国町小倉

大滝おおたき村の南、大滝川の最上流域に位置する。近世初期の邑鑑には村名を欠くが、寛永八年分限帳では家臣福王寺名兵衛・朝間五郎兵衛などの給地があった。正保郷帳では田高三二石余・畑高九石余。承応元年(一六五二)には当村の金蔵が越後より鏨一〇〇丁を買入れているが(「慶承日帳」上杉家文書)、小国町村の鍬鍛冶に関連するものであろうか。


小倉村
おぐらむら

[現在地名]篠山市小倉

小原おばら村の東にあり、大芋おくも川が流れる。明応六年(一四九七)九月五日の大芋慶氏当知行分目録(大芋文書)に「ヲクラ口町田」と記される。正保郷帳に「小倉村」とみえ、田高一七一石余・畠高一八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android