小出秀政(読み)こいでひでまさ

改訂新版 世界大百科事典 「小出秀政」の意味・わかりやすい解説

小出秀政 (こいでひでまさ)
生没年:1540-1604(天文9-慶長9)

織豊政権期の武将通称甚左衛門。豊臣秀吉家人秀吉叔母を妻とし,その1字を授けられて秀政と名のったという。1582年(天正10)播磨姫路城の留守居。85年,和泉国岸和田城主(3万石)に取り立てられる。秀吉は死に際して,その子秀頼の補佐を秀政に命じたといわれるが,やがて徳川家康に属し,関ヶ原の戦では次子秀家を東軍に参陣させた。大坂死亡
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関連語 加藤

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小出秀政」の解説

小出秀政 こいで-ひでまさ

1540-1604 織豊-江戸時代前期の武将,大名
天文(てんぶん)9年生まれ。豊臣秀吉につかえる。天正(てんしょう)13年(1585)和泉(いずみ)(大阪府)岸和田城主となり,3万石を領する。関ケ原戦いで長男吉政とともに西軍に属したが,次男秀家が東軍で戦功をたてたため所領安堵(あんど)された。慶長9年3月22日死去。65歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は甚左衛門。

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世界大百科事典(旧版)内の小出秀政の言及

【和泉国】より

…このとき一向一揆の貝塚願泉寺も陥落している。豊臣秀吉は友閑を罷免して石田三成と小西隆佐を堺代官とし,岸和田城には小出秀政(3万石)を,のち谷川城には桑山重晴(1万6000石)を置き,和泉を支配させた。【今谷 明】
【近世】
 1600年(慶長5)関ヶ原の戦の結果,和泉国にも堺,岸和田を中軸として,漸次徳川氏の支配がおよんできた。…

※「小出秀政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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