小千谷村(読み)おぢやむら

日本歴史地名大系 「小千谷村」の解説

小千谷村
おぢやむら

[現在地名]小千谷市ほん町・孫八まごはつ町・よこ町・冬堀ふゆぼり町・土手どて町・てら町・上山うえのやま町・稲荷いなり町・船岡ふなおか町・さかえ町・住吉すみよし町・タ町・天竺てんじく町・吉富よしとみ町・川岸かわぎし町・旅屋たや町・鉄砲てつぽう町・栄町宿舎さかえちようしゆくしや

信濃川が魚野うおの川を合せて約四キロ下流の左岸湯殿ゆどの川の細流が注ぐ。この河口は三国街道から分岐した高田たかだ道の渡河点にあたり、当村は水陸交通の要衝を占める。この渡船場を中心に古くから町化が進んでいたものとみられ、「独覧聞書」に「今之御蔵所之道之前後、本通に清水丁之道之左右両側に百姓渡世を致し罷在候」とある。清水しみず丁は下タ町の北の通称で、湯殿川河口から信濃川辺の渡船場の川岸町にかけて人家が集まっていた。永禄七年(一五六四)には対岸生の山寺ひうのやまでらから五智ごち院が渡船場に近い河口右岸の深地しんち城の一隅に再建された。当初の町並があった一帯を蓮花谷れんげだにという。深地城の地続きには天竺町があり、高所にあるゆえの名で輸送に携わった者が集住した古い町である。

地名は年月日未詳の高梨氏所領注文(高梨文書)に「小千屋」とみえるが、年号の判明するものでは永禄一二年五月一八日の進藤家清書状(伊佐早謙氏蔵)に「おぢ屋」とみえる。小千谷町としての初見は慶長一四年(一六〇九)の小千谷町五智院分検地帳(五智院文書)である。名請人には「ちや屋」五筆のほかに、商売の屋号のついている者が数人みられる。「独覧聞書」によれば慶長一五年四月一五日「川岸清水町之下タ段より、今之町へ上り、町並之准ニ始家作致候」とあり、この年から狭隘になった蓮花谷から「今之町」すなわち本町への計画的移動が行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報