改訂新版 世界大百科事典 「高田藩」の意味・わかりやすい解説
高田藩 (たかだはん)
越後国高田(現,上越市)に藩庁を置いた大藩。藩主は年代順に,(1)1610-16年(慶長15-元和2)親藩松平忠輝60万石,(2)16-19年譜代酒井氏10万石,(3)19-24年(寛永1)親藩松平氏(越前家)25万石,(4)24-81年(天和1)親藩松平光長26万石,(5)85-1701年(貞享2-元禄14)譜代稲葉氏10万2000石,(6)01-10年(宝永7)譜代戸田能登守家6万7800石,(7)10-41年(寛保1)譜代松平(久松)氏11万石,(8)41-1871年(明治4)譜代榊原氏15万石。
1610年越後福島城主堀氏30万石に内訌があり,徳川家康は駿府に幼主堀忠俊を呼び寄せて親裁し,忠俊に改易を命じた。即日,家康は六男松平忠輝を川中島(松代)から福島城主とし,越後一国60万石の大守とした。しかし忠輝は14年幕府へ願って高田城を築き,高田を開府した。工事は国役普請により,伊達政宗以下13大名が命を受けて3月着工,7月第1期工事が竣工して忠輝は入城した。10月大坂冬の陣が起こり工事を中止した。16年忠輝は改易を命ぜられ,あとへ高崎から酒井家次が封ぜられたが,家次は病死して忠勝が継ぎ,酒井家は高田在封2年6ヵ月で信州松代へ転封した。そのあと松平忠昌が川中島(松代)から来たが,兄忠直が改易となり,忠昌は在城わずか5年で福井へ移り,父祖の跡を継いだ。忠直の長男光長は10歳で叔父忠昌のあと高田藩主となった。しかし幼少であったため母高田姫とともに江戸に住み,34年母と同道で入城した。光長在封57年の間,家老小栗美作父子の殖産興業策により新田の大開発,用水開削,銀山採掘などで藩庫を豊富にし,城郭完成,城下町整備を行い高田藩の全盛期を現出した。しかし81年,光長の継嗣問題にからむ越後騒動の結果改易となった。没収された光長の領地は全部幕領となり,4年5ヵ月間,在番時代が続いた。85年稲葉正通が小田原から来て入城,在城16年で佐倉へ国替となり,戸田忠真が高田城主となった。戸田氏のあと,桑名から松平定重が入部し,定達,定輝,定儀,定賢と5代31年3ヵ月在封した。その間1722年(享保7)頸城(くびき)郡の幕領一円に質地騒動があり,定輝は幕命によりこれを鎮圧し,断罪に処した。41年奥州白河へ転じ,姫路から榊原氏が入封した。政永,政敦,政令,政愛,政養,政敬と6代130年で廃藩置県となった。政令は人材の登用,倹約の奨励,殖産興業をはかり,義倉を設けるなど藩政改革につとめた。
→高田[高田城下]
執筆者:渡辺 慶一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報