小原豊雲(読み)おはらほううん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「小原豊雲」の意味・わかりやすい解説

小原豊雲
おはらほううん
(1908―1995)

いけ花流派小原流3世家元。創始者雲心(うんしん)、2世光雲(こううん)と継がれ流派の伸張をみたが、1938年(昭和13)豊雲の家元就任によって、その基礎は不動のものとなった。第二次世界大戦後の前衛いけ花に主導的役割を果たした一人として活躍、その作風野性味にあふれ幻想豊かな雰囲気を特色とする。58年ブリュッセル万国博覧会に文化使節として渡欧、65年中南米をめぐり個展を開き、66年ブラジルからオールデン・ソベラーナ・デラクルス勲章を受けた。71~89年(平成1)財団法人日本いけばな芸術協会理事長。1980年勲三等瑞宝(ずいほう)章受章。

[北條明直]

『『豊雲の眼』(1983・文化出版局)』『『幻花巡歴 小原豊雲遺作集』(1996・主婦の友社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小原豊雲」の解説

小原豊雲 おはら-ほううん

1908-1995 昭和-平成時代の華道家。
明治41年9月29日生まれ。小原光雲長男。昭和13年小原流3代家元をつぐ。戦後は前衛いけ花運動の提唱者のひとりとして活躍。大流派としての基礎をきずき,現代いけ花界の代表作家となった。46年日本いけばな芸術協会理事長。平成7年3月18日死去。86歳。大阪出身。大阪府立高等園芸卒。本名は豊(ゆたか)。

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世界大百科事典(旧版)内の小原豊雲の言及

【いけばな】より

…この運動のなかから昭和初年にはより先鋭的に芸術としてのいけばな確立をめざしたのは,重森三玲,勅使河原蒼風,中山文甫たちによる〈新興いけばな宣言〉であったが,昭和10年代からの戦争突入によってこの運動も挫折してしまった。戦後の急激ないけばなの近代化は,勅使河原蒼風,中山文甫,小原豊雲たちによって展開され,使用する素材の領域を拡大して鉄や石や鳥の羽根,貝などの無機物までを含めていけばなの造形活動を行った。前衛いけばな運動と呼ばれたこの運動は,当時の前衛美術と提携して出発したものだったが,やがてその政治性を否定していけばなはその芸術的側面においてのみ運動を続けた。…

【小原流】より

…光雲はまた流派内組織を充実するため,研究会による支部を各地に設け社中会の連合による全国組織の確立につとめた。光雲は1938年没し,その後を3代の小原豊雲が継承したが,豊雲の活躍は第2次大戦後において著しい。1946年に行った勅使河原蒼風との2人展についで,関西におけるグループ展のリーダーとして活躍,さらに〈三巨匠展〉において蒼風,中山文甫と造形作品を発表し,以後前衛いけばな運動を積極的に展開した。…

※「小原豊雲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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