日本の城がわかる事典 「小国城」の解説 おぐにじょう【小国城〈山形県鶴岡市〉】 山形県鶴岡市(旧温海(あつみ)町)にあった戦国時代の山城(やまじろ)。国指定史跡。楯山につくられた東西約250m、南北約160mの規模を持つ典型的な山城である。大宝寺城(のちの鶴ヶ岡城、同県鶴岡市)や尾浦城(のちの大山城、同市)を本拠としていた大宝寺武藤氏の最南端の支城で、城主は大宝寺氏被官の小国氏である。この城は越後国と庄内の国境付近に位置した交通・物流の要衝を押さえる拠点であったことから争奪の対象となり、城の所有は武藤氏、上杉氏、最上氏の間を転々とした。最上義光に庄内の領地と城を奪われた武藤義勝が十五里ヶ原の戦いの前に、庄内奪回を策した城でもある。関ヶ原の戦い後、最上氏の城となったが、1615(元和1)の一国一城令により廃城となった。JR羽越本線のあつみ温泉駅からバス約20分。 おぐにじょう【小国城〈山形県最上町〉】 山形県最上郡最上町にあった山城(やまじろ)。城の規模は東西83m、南北86mほど。最上郷と呼ばれていた現在の最上町一帯を支配した細川直元が築いた城館、岩部の楯がその起源といわれている。直元は天童城の天童頼澄を盟主とする最上下郷八楯(国人一揆)の一員として山形城の最上義光に敵対したが、1580年(天正8)に最上氏により滅ぼされた。義光はその戦いで功績のあった蔵増安房守に小国郷を与え、その子光基は細川氏の居館跡に小国城を築城して居城とし、小国氏を名乗った。1622年(元和8)、主家の最上氏が改易になると、小国氏も佐賀藩預かりとなり小国城は廃城となった。現在、城跡には郭、空堀、土塁、水場跡などがよい状態で残っている。JR陸羽東線最上駅から徒歩約20分。見性寺の裏山が城跡である。◇岩部の楯とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報