小国郷
おぐにごう
中世の小国郷は阿蘇本社領に属し、当郷内には満願寺(現南小国町)・宮原・上田・北里などのほか、近世の二十数ヵ村を数え、そのなかに多くの小村が含まれる。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)によると、二宮と霜宮に初穂米を納むべき在所の一つに「小国之分」とあり、そのなかに冠形・秋原・北里・しつり・江古尾・上田・波居原などがみえる。冠形には杉田・松木・中原・湯田(現南小国町)、宮原・城・黒淵・土田・若宮・下城・関田の各村が、秋原には萩原村が、「北里之分」には西里・北里・西の各村が、しつりには万城寺村が、江古尾には江古尾・幸野の各村が、上田には上田村、波居原には波居原・赤馬場・満願寺(現南小国町)の各村がそれぞれ含まれている。
小国郷
おくにごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに「小国」と記し、前者が「乎久仁」、後者が「乎久爾」と訓を付す。「芸藩通志」は「今も村名存す」とし小国村(現府中市)をあてる。「日本地理志料」は御調郡浦辺筋の篠根・河面・小国・諸毛・三郎丸・河南(現府中市)、大蔵・本(現御調町)の八村をあげる。
小国郷
おぐにごう
津口川(現美波羅川)の流域に開けた中世郷。郷名は延文二年(一三五七)七月二二日の細川頼之預ケ状(山内首藤家文書)にみえ、小国郷領家職半分を日和佐新左衛門尉に預けたとある。室町初期に半済が行われており、宝徳元年(一四四九)に小国半済方潮音寺分が新見宗頴・直時によって潮音寺に寄進されている(同年九月晦日付「新見宗頴同直時連署寄進状」潮音寺文書)。
文明四年(一四七二)一一月二五日、福原広俊は戦功により小国地頭分を与えられ、同五年一月一〇日、宮田教言から合力の恩賞として小国郷一円を宛行われ、代官を設置するよう勧められている(「閥閲録」所収福原対馬家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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