小境村(読み)こざかいむら

日本歴史地名大系 「小境村」の解説

小境村
こざかいむら

[現在地名]氷見市小境

北は大境おおざかい村、西と南は脇方わきがた村、東は富山湾に臨む。西方より丘陵山地が海に迫り、字白見しらみと字前田まえだの小谷内を開いて水田がつくられている。白見には白見川、前田には中村なかむら川が流れる。集落は小境ヶ崎の北方前田の海岸寄りに集まり、浜往来(海浜道)が通る。伊勢神宮と関係が深く、天正一四年(一五八六)前田利勝(利長)から伊勢の御師堤源助に、当村一二〇俵分が寄進されている(「伊勢領寄進状」小境区有文書)。文禄四年(一五九五)の氷見庄加納村等指出写(加越能文庫)に「高百弐拾九表 伊勢領小(境)村 同御山銭四百文」とあり、慶長二〇年(一六一五)前田利常は当村内高一二〇俵の神宮領を安堵している(「前田利常安堵状」加越能文庫)正保郷帳では小堺村とあり、高一五五石、田方一町六反余・畑方八町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一六五石・免五ツ六歩、小物成は山役二七匁、塩竈役一一匁(退転)、網役八二匁(ほか一五三匁退転)、猟船櫂役八五匁(ほか六二匁退転)、釣役五五匁(うち二匁出来)、小舟役六匁(三箇国高物成帳)。明暦二年(一六五六)の加納組高覚帳(円仏家文書)では百姓二五・頭振二五。

小境村
こざかいむら

[現在地名]飯山市大字豊田とよた

外様平とざまだいらのほぼ中央、関田せきだ山脈の麓にある村。北は柳沢やなぎさわ村、南は顔戸ごうど村に接する。村内の枝集落押出おしで組・立道たつみち組は貞享年間(一六八四―八八)から別に名主を置く。小境新田は寛永年間(一六二四―四四)飯山藩主佐久間安長の許を得て阿部長左衛門が開拓した。元禄郷帳に「小境村枝郷小境新田村」として高六七石九斗九升四合が別記されている。天保郷帳では小境村に属す。

明徳三年(一三九二)三月幕府に所領安堵を願い出た高梨朝高言上状案(高梨文書)に「一 水内郡芋川庄上村長井郷庶子常岩中条内小境郷」とあるのが初見で、高梨氏の所領で常岩中条ときわちゆうじよう内であったことがわかる。

小境村
こざかいむら

[現在地名]平田市小境町

鹿園寺ろくおんじ村の東に位置し、楯縫たてぬい郡に属した。村域は小境川の流域を占め南北に長く、南は宍道湖に面する。宍道湖に沿って杵築道が横断し、東は秋鹿あいか上伊野かみいの村・下伊野村北部には古くから眼病に効験があるとして名高い一畑いちばた薬師(現臨済宗妙心寺派一畑寺)がある。中世には小境保として推移した。慶安三年(一六五〇)の小境村御検地帳によると田方三七町五反余・分米四八五石余、畠方四町余・分米二一石余、うち二〇石が一畑寺領。屋敷数三三。元禄十年出雲国郷帳によると高六五一石余、寛文四年(一六六四)には本田高六〇八石余・新田高七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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