浜往来
はまおうらい
富山湾に沿う往来道で、浜街道・海浜道・海辺道とも称された。能登鹿島郡から氷見町、伏木村(現高岡市)、放生津町・海老江村(現新湊市)などを経て東岩瀬町(現富山市)に至り、北陸街道と合流した。以後多くは同街道と重なりながら滑川町・魚津町、生地村(現黒部市)、横山村(現入善町)などを経て越後へ抜けた。海寄りの微高地にできた集落の中央、あるいは北縁に道は開かれたが、古明神村・海老江村(現新湊市)や四方町(現富山市)のように海岸浸食により道が付替えられた所や(新湊市史)、現在は海中に沈んでしまっている所もある。往来沿いには漁業や海運業が発達し、魚・米・肥料などの物資や人が集まる町が成立し、河川や潟などによって内陸部とも結ばれていた。商人のほか藩の役人も通り、とくに幕末には海岸巡見のための通行があった。ロシア船が沖に現れるなどしたため、往来沿いの村々には海岸防備の措置が講じられた。享和三年(一八〇三)には伊能忠敬が能登から浜往来を通って海岸測量を行っている(「伊能忠敬測量日記」伊能忠敬記念館蔵)。
正保四年(一六四七)の「越中道記」では、浜往来としては認識されていなかった。ただし、海岸沿いの道筋として氷見町から能登所口町(現石川県七尾市)への脇道、伏木村から氷見町への大道、四方村から放生津町・六渡寺村(現新湊市)への脇道、および北陸街道にあたる東水橋町(現富山市)から東方の越後国境の境川までの道筋があげられている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 