小宅庄(読み)おやけのしよう

日本歴史地名大系 「小宅庄」の解説

小宅庄
おやけのしよう

和名抄」に記載される揖保いぼ小宅郷の郷名を継承したと推定される庄園で、揖保川下流域左岸の現龍野町小宅北たつのちようおやけきたが遺称地。北西は揖保庄、南西は浦上うらかみ庄、南東弘山ひろやま庄に接する南北に細長い庄園。文和三年(一三五四)三月と貞治五年(一三六六)一〇月と推定される二点の小宅庄三職方絵図(大徳寺文書)がある。建長八年(一二五六)三月四日の守護代某夫役催促状(広峯文書)によれば、創建まもない鎌倉建長寺に納める一切経(宋版一切経か)の運搬に際し、御家人広峯家長は小宅宿から加古川かこがわ宿までの持夫一〇人と警固の兵士一人を割当てられている。当地には小宅宿とよばれる宿場が形成されていたとみられる。「峯相記」によれば、小宅郷に万歳長者がおり、揖保庄の四コフ長者と婿・舅になったという。この万歳長者は宿駅の長であったと考えられ、同書は近年当地の牛飼が石塚の中に光る石を見つけ、長者の旧跡なのでおそらく金であろうと記している。文永九年(一二七二)正月一五日の後嵯峨上皇処分状案(伏見宮家文書)に准后(平棟子)への譲進分として小宅庄とみえる。

〔大覚寺領小宅庄〕

後嵯峨上皇・後宇多上皇が住した京都大覚寺に付されたようで(当庄惣庄方と思われる)、元亨二年(一三二二)一〇月二九日の後宇多上皇院宣案(井関文書)によると、朝廷は大覚寺領小宅庄に対する役夫工米の譴責停止を命じている。文和三年閏一〇月三日および永和二年(一三七六)閏七月一〇日には大嘗会米の免除が認められている(「後円融天皇綸旨案」同文書など)。応永一一年(一四〇四)九月二六日、大覚寺は小宅庄内名主職名を闕所地として播磨守護被官の宇野氏・富田氏らが押領するのを訴え、幕府は守護赤松氏に停止させるよう命じている(「室町幕府管領奉書案」同文書)。同一二年五月四日、幕府は小宅庄に対する諸公事・臨時課役・段銭などの停止を播磨守護に命じ(「室町幕府管領奉書案」同文書)、永享二年(一四三〇)六月八日にも当庄の役夫工米・段銭の免除が認められた(「性智等連署状案」同文書)。しかし同九年に大覚寺三一世義昭(足利義満息)が将軍足利義教に反し大和に出奔した事件にかかわってか当庄を失い、応仁元年(一四六七)八月四日に幕府から当庄など八ヵ庄を返付されている(「室町幕府奉行人連署奉書案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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