日本歴史地名大系 「小宅庄」の解説
小宅庄
おやけのしよう
- 兵庫県:龍野市
- 小宅庄
「和名抄」に記載される
〔大覚寺領小宅庄〕
後嵯峨上皇・後宇多上皇が住した京都大覚寺に付されたようで(当庄惣庄方と思われる)、元亨二年(一三二二)一〇月二九日の後宇多上皇院宣案(井関文書)によると、朝廷は大覚寺領小宅庄に対する役夫工米の譴責停止を命じている。文和三年閏一〇月三日および永和二年(一三七六)閏七月一〇日には大嘗会米の免除が認められている(「後円融天皇綸旨案」同文書など)。応永一一年(一四〇四)九月二六日、大覚寺は小宅庄内名主職名を闕所地として播磨守護被官の宇野氏・富田氏らが押領するのを訴え、幕府は守護赤松氏に停止させるよう命じている(「室町幕府管領奉書案」同文書)。同一二年五月四日、幕府は小宅庄に対する諸公事・臨時課役・段銭などの停止を播磨守護に命じ(「室町幕府管領奉書案」同文書)、永享二年(一四三〇)六月八日にも当庄の役夫工米・段銭の免除が認められた(「性智等連署状案」同文書)。しかし同九年に大覚寺三一世義昭(足利義満息)が将軍足利義教に反し大和に出奔した事件にかかわってか当庄を失い、応仁元年(一四六七)八月四日に幕府から当庄など八ヵ庄を返付されている(「室町幕府奉行人連署奉書案」同文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報