揖保庄(読み)いぼのしよう

日本歴史地名大系 「揖保庄」の解説

揖保庄
いぼのしよう

和名抄」に記載される揖保郡揖保郷の郷名を継承したとみられる中世の庄園で、揖保川下流域左岸、同川と支流林田はやしだ川の間、現龍野町・揖保町いぼちよう地区一帯と揖保川右岸の現揖保郡揖保川いぼがわ町域に比定される。本家は最勝光さいしようこう(現京都市東山区)。領家職は丹後局高階栄子子孫に分割相伝されたと考えられる。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月九日条によれば、播磨国守護梶原景時配下の武士平家所縁のある庄園として「保」を押領したとみえ、これは揖保庄とされる。後白河院から武士の押領を退けるようにとの要請があり、源頼朝は命に従っていったん退去しながら再度隙をうかがって濫妨した輩に厳命を下すよう命じられている。当庄は建春門院平滋子の御願で承安三年(一一七三)建立された最勝光院領の庄園であったが、女院の没後は後白河院の管理下にあったとみられる。その後院の寵妃丹後局高階栄子の知行するところとなり、建久三年(一一九二)三月、当庄などに対し大嘗会・造野宮・造内裏以下の勅院事国役ならびに国郡司甲乙諸人らの妨げが停止されている(「後白河院庁下文案」大徳寺文書)

領家職は鎌倉期に高階栄子の子孫の間で上揖保と下揖保に二分される。正中二年(一三二五)三月日の最勝光院領庄園目録案(東寺百合文書)によれば、上揖保・下揖保とも最勝光院への年貢は各一五石、近年一五貫文の銭納であったが、前者は弘安二年(一二七九)には八貫文だけ、後者は近年一二貫文だけが納められていた。領家は上揖保は刑部少輔入道、下揖保は冷泉中将頼成(高階栄子の曾孫。ただし頼成は正和五年六月没)であった。鎌倉期の最勝光院領相伝系図并庄園目録(教王護国寺文書)には下揖保庄本家職一五石、領家は山科中将入道行如とある。以降山科家は上・下揖保庄領家職を伝領したと考えられる。

〔下揖保庄地頭職の伝領〕

弘安六年八月日の下揖保庄地頭方文書紛失状(越前島津家文書)によれば、下揖保庄地頭職は元仁元年(一二二四)高鼻和有景に与えられ、仁治三年(一二四二)娘の越後局に譲られ、弘安二年にその子島津忠行に伝領された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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