日本歴史地名大系 「揖保庄」の解説
揖保庄
いぼのしよう
「和名抄」に記載される揖保郡揖保郷の郷名を継承したとみられる中世の庄園で、揖保川下流域左岸、同川と支流
領家職は鎌倉期に高階栄子の子孫の間で上揖保と下揖保に二分される。正中二年(一三二五)三月日の最勝光院領庄園目録案(東寺百合文書)によれば、上揖保・下揖保とも最勝光院への年貢は各一五石、近年一五貫文の銭納であったが、前者は弘安二年(一二七九)には八貫文だけ、後者は近年一二貫文だけが納められていた。領家は上揖保は刑部少輔入道、下揖保は冷泉中将頼成(高階栄子の曾孫。ただし頼成は正和五年六月没)であった。鎌倉期の最勝光院領相伝系図并庄園目録(教王護国寺文書)には下揖保庄本家職一五石、領家は山科中将入道行如とある。以降山科家は上・下揖保庄領家職を伝領したと考えられる。
〔下揖保庄地頭職の伝領〕
弘安六年八月日の下揖保庄地頭方文書紛失状(越前島津家文書)によれば、下揖保庄地頭職は元仁元年(一二二四)高鼻和有景に与えられ、仁治三年(一二四二)娘の越後局に譲られ、弘安二年にその子島津忠行に伝領された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報