デジタル大辞泉
「石塚」の意味・読み・例文・類語
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いし‐づか【石塚】
- 〘 名詞 〙
- ① 石碑。また、墓石。
- [初出の実例]「稲荷大明神と記したる石塚、これへ続き川端の駒寄」(出典:歌舞伎・与話情浮名横櫛(切られ与三)(1853)七幕)
- ② 石の積み重なった小さい丘。
- [初出の実例]「この石塚(イシヅカ)を清玄坂、上なるは桜姫の宮」(出典:歌舞伎・隅田川花御所染(1814)三立)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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石塚
いしづか
生目神社が所蔵する宝治二年(一二四八)五月銘の守護神面に「石塚城主 土持右衛門尉 田部通綱」とみえる。応永六年(一三九九)日向山東地域で国人一揆が勃発、同八年伊東祐武は石塚に入城して島津勢を追払った。同一九年には土持氏と婚姻関係を結んだ伊東祐立が島津勢を源藤川などの合戦で破り、同二二年島津勢が跡江に陣を布いた際は石塚の栗下が伊東勢の陣所となった。同二五年には石塚殿とよばれる伊東氏一族が加江田城を確保しており、土持氏から伊東氏へ移行していたと推定される。文安四年(一四四七)伊東祐尭は宮崎周辺に勢力を張っていた土持氏系の県伊東氏一族を屈服させたが、同年一一月一六日、石塚城を開城させ、県伊東氏には替地として村角を与えている(以上「日向記」)。
石塚
いしづか
[現在地名]会津若松市
川原町・
城西町 郭外西部の湯川西岸にあり、東対岸は花畑組町。天応元年(七八一)陸奥大掾石川浄足が伊治公呰麻呂の乱を避けるため、宮城郡多賀城(現宮城県多賀城市)から会津に来て、当地で没した。その子孫は三家に分れ、うち一家が石塚氏を称し、当地に石塚館を築いたための地名という(新編会津風土記)。天文四年(一五三五)五月三日の蘆名盛舜加判佐瀬常教寄進状(新編会津風土記)によれば、「東黒川之内法花堂南堀際百五十苅、并石塚之南弐百苅、合参百五十苅之田地」が実成寺に寄進されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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