精選版 日本国語大辞典 「小山作之助」の意味・読み・例文・類語 こやま‐さくのすけ【小山作之助】 作曲家、音楽教育家。越後(新潟県)出身。音楽取調所全科卒。芝唱歌会を起こし、東京音楽学校で後進を指導。「夏は来ぬ」「川中島」「敵は幾万ありとても」など多くの唱歌を作曲。文久三~昭和二年(一八六三‐一九二七) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
20世紀日本人名事典 「小山作之助」の解説 小山 作之助コヤマ サクノスケ 明治〜昭和期の作曲家,音楽教育家 東京音楽学校教授。 生年文久3年12月15日(1864年) 没年昭和2(1927)年6月27日 出生地越後国潟町村(新潟県大潟町) 学歴〔年〕音楽取調掛全科(現・東京芸術大学)〔明治20年〕卒 経歴東京府伝習所、東京師範、東京盲啞学校教諭などを経て、明治25年東京音楽学校助教授、30〜38年教授。また各私立音楽学校顧問を務める。私塾・芝唱歌会を主宰。この間、「小学唱歌集」「中学唱歌集」「勅語奉答歌」などの作曲に参加、「夏は来ぬ」「川中島」「広瀬中佐」「寄宿舎の古釣瓶」などの唱歌を多数作曲。また同声会理事長、日本音楽協会初代会長、音楽教育会会長、音楽連盟幹事、日本楽器会社監査などを務めた。 出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「小山作之助」の解説 小山作之助 没年:昭和2.6.27(1927) 生年:文久3.12.15(1864.1.23) 明治から昭和にかけての作曲家,音楽教育家。越後潟町村(新潟県大潟町)出身。明治20(1887)年音楽取調掛(東京芸大音楽学部)全科卒業。東京府伝習所,東京師範学校,東京盲唖学校などを歴任して,25年東京音楽学校助教授,30年から38年同校教授。のち,同声会理事長,日本音楽協会初代会長,日本楽器会社顧問,文部省検定図書調査委員を務める。後進への面倒見がよく,「音楽界の西園寺公望」と評された。作曲した唱歌は多数。なかでも「夏は来ぬ」「川中島」「敵は幾万」などは特に名高い。その編著に成る唱歌集の数も多い。 (中村洪介) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小山作之助」の解説 小山作之助 こやま-さくのすけ 1864*-1927 明治-大正時代の音楽教育家。文久3年12月15日生まれ。文部省音楽取調掛を卒業し,明治30年後身の東京音楽学校(現東京芸大)教授。「夏は来ぬ」「敵は幾万」など唱歌,軍歌をおおく作曲。文部省検定図書調査委員,日本教育音楽協会会長。昭和2年6月27日死去。65歳。越後(えちご)(新潟県)出身。 小山作之助 おやま-さくのすけ ⇒こやま-さくのすけ 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by