小長谷村(読み)こながたにむら

日本歴史地名大系 「小長谷村」の解説

小長谷村
こながたにむら

[現在地名]八尾町小長谷

八尾町の東方、井田いだ川の支流久婦須くぶす川の両岸に広がる。黒瀬谷くろせだにの最北の村で、八尾町の川窪新かわくぼしん町は当村内の川窪を中心に町立てされた。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に「黒瀬内小永谷両むかい」とみえ、佐々成政が佐々定能に当所四八〇俵の所などを与えている。正保郷帳に村名がみえ、村高は村杉むらすぎ村と合せて五五九石余、田方一九町余・畑方一八町一反余、新田高三四石余。承応四年(一六五五)の村御印では草高六四七石余(免三ツ三歩)で、浦上又右衛門など七人の給人地、蔵入分は一七四石余、夫銀は一〇〇石につき一四〇匁、口米は一石につき八升、小物成銀は二二匁余(村々御印物等書上)


小長谷村
こながたにむら

[現在地名]黒川村小長谷

高坪たかつぼ山東麓の谷間にあり、東を霧出きりで(現鍬江沢川)が北流し、東端で小長谷川と滝の沢たきのさわ川が合流して注ぐ。北東は鍬江くわえ村、南は大長谷おおながたに村に接する。元徳三年(一三三一)一二月一九日の鎌倉幕府引付頭人(北条俊時)奉書(三浦和田氏文書)奥山おくやま庄内として「小長谷」とみえる。当地をはじめ奥山庄内六ヵ所の領有をめぐり海老名忠顕と和田(黒川)章連が相論しており、この時忠顕・章連ともに小長谷は長谷のうちであるとしている。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領に編入され、寛保二年(一七四二)陸奥白河藩領、文政六年(一八二三)武蔵忍藩預所となり、のち幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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