( 1 )事柄としては、「古事記」や「日本書紀」の隼人舞の起源説話にまでさかのぼることができ、「源氏‐手習」には「物まねび」の語が見える。
( 2 )②の意では世阿彌の能楽論に多く見られる。しかし、「もの」には、翁や鬼など超自然的な神や精霊に通じるニュアンスがあり、猿楽に起源をもち、面をつけることを基本にする世阿彌の場合、模写的な演技そのものというわけではない。
( 3 )「新猿楽記」などに見られる模写的な演技は、面をつけない狂言に受け継がれ、近世になって歌舞伎や浄瑠璃に取り入れられると、歌舞伎役者の声色のものまねがはやり、③の意を生じた。
自分以外の人間、動物、器物の音声や形態を、自分の声や身ぶりでなぞること。また狭義には、そういう物真似を演じて見せる芸をいう。
他者をなぞるこの物真似という模倣本能は、環境への適応に死活がかかる生物一般のものであるが(昆虫の擬態(ミミクリー)など)、とくに自己と他者の関係を鋭く意識することでできあがっている人間社会のなかで、物真似は文化を解くキーワードとなってきた感さえあるといえる。人間文化は周囲の自然との乖離(かいり)を進歩の指針とし、ひとりひとりの人間は周囲の人間との違いを個性化とよぶことで進んできたが、そうした進歩の見返りとして、自然、動物、他の人間といった他者と鋭く対立する人間個人の孤独、生き生きした宇宙とのつながりから断たれた孤立という現象がおきてきた。文明化、都市化に伴うこの孤独から身を守ろうとする個体は、さまざまなまねる営みをくふうすることで、世界との失われた一体感を回復しようとしているのだと考えられる。
物真似の起源は模倣呪術(じゅじゅつ)とか類似呪術とかよばれる呪術的な物真似にあった。たとえばフランスの社会学者L・レビ・ブリュールが未開民族の習俗にみいだした「融即」participationという状態がその極致で、部族のトーテムたる鳥獣の物真似をしている踊り手は、その瞬間、その鳥獣をまねているのではなくて、人でありながらすなわち鳥獣であるという形で、矛盾律によってたつ近代人の論理をあっさり超越してしまっている。こうしたトーテミズムの舞踏、精霊や死者の物真似、呪術的・宗教的な仮装や仮面、わが国の民俗芸能にみる農耕の物真似、獅子舞(ししまい)や鹿踊(ししおどり)などなど、共同体と聖なるものとのつながりを確認させるための民俗の知恵である。模倣芸を行うギリシアの芸人「ミメ」mimeも元来はそうした呪術的な物真似をする人間をいい、のちには模倣一般をさすことになる「ミメーシス」も元来はミメたちの呪術的行為をいった。日本で最初に物真似が言及される『日本書紀』の海幸(うみさち)・山幸(やまさち)説話でも、そこで物真似を行う「俳優(わざおぎ)」は神々をも楽しませる宇宙的次元をもった存在であったはずである。
トーテム模倣は未開の風俗だが、われわれの周囲にも、孤独な個体が「あたかも……のごとく」という見立ての約束を通じて一時的に他者になるくふうがある。広くプレイ(遊び、演技)とよばれる営みがそれで、物真似の営みが遊び論、演劇起源論のなかで論じられることが多いのはそのためである。子供のするままごとや兵隊ごっこといった「……ごっこ」の遊びは、母親や兵隊の物真似をする「あたかも……のごとく」という見立てや「振り」の構造において、そっくり演劇の起源にも通じている。他者に扮(ふん)してそれらしくまねしようとすることが俳優術の基本であろう。アリストテレスの『詩学』の悲劇論のなかで、「ミメーシス(模倣)」が取り上げられており、世阿弥(ぜあみ)の『風姿花伝』にも、「物学(ものまね)条々」としてさまざまな役柄の演技のあり方が論じられている。また、自己と他者の関係の微妙な揺れのうえに成立する演劇のあり方を、双子の主題や変装や仮面という小道具を使って主題化したのがバロック演劇であるともいえよう。日本では芸能としての物真似は南北朝時代に現れ、能楽、歌舞伎(かぶき)(とくに猿若(さるわか)の独狂言(ひとりきょうげん))のなかで大成されている。物真似自体が鑑賞の対象になる演劇形式にはミムス、マイム、パントマイム、黙劇(ダム・シヨー)、身振り狂言があり、さらに役者の所作や声をまねる「物真似」「声色(こわいろ)」、動物や虫の音声をまねる「猫八芸」などの演芸に至る。
さらに演劇自体が一社会全体をより正確にまねしようとして写実主義(リアリズム)演劇を生んでいくが、「芸というものは虚と実の皮膜(ひまく)の間にあるものなり」(近松門左衛門)といわれるように、行きすぎた模倣はかえって不自然となる。元のもの(オリジナル)をまねながら誇張やずれをつくって笑いを引き出すパロディーや戯画といった風刺文化の流行、真似のテクノロジーたる複製技術の独走、服飾や風俗などのファッションやテレビでの「物真似ショー」の瀰漫(びまん)、スーパーリアリズムという「行きすぎた模倣」の隆昌(りゅうしょう)など、現代は物真似過剰、擬似現実(シミュラークル)過剰の時代ともいえよう。しかし、まねることによって世界との失われた一体感を回復しようとする原点から逸脱したこれらの現象を前に、今われわれには自己と他者、独創性と複製技術の関係をめぐる真の反省が改めて必要とされている。
[高山 宏]
『ロジェ・カイヨワ著、清水幾太郎・霧生和夫訳『遊びと人間』(1970・岩波書店)』▽『ジャン・ボードリヤール著、今村仁司・塚原史訳『象徴交換と死』(1982・筑摩書房)』▽『ジュディス・ウェクスラー著、高山宏訳『人間喜劇――19世紀パリの観相術とカリカチュア』(1987・ありな書房)』
社会を成り立たせている様式は,J.G.タルドによれば,人による人の模倣である。幼い子どもはおとなのしぐさを真似する。そのまねには,どこかずれているところがあり,そのずれが,家庭にとって絶えざる楽しみの源泉である。おとなになってもものまねの巧みな人は,職場の余興でも演ずることができるし,舞台にたったり,テレビに出たりして,専門家としてひろく社会に娯楽を与える。その場合にまねする対象との間のずれは意識的にもたらされるものであり,そのずれが対象に対する風刺となる。太古から今日まで,ものまねは家庭内,職場や友人仲間,もっとひろく社会に対して,笑いをとおしての批判の働きを担ってきた。神楽などをふくめて,日本の伝統芸能には,古来の日本人の楽しみと自己批判の歴史がある。
マス・コミュニケーション,とくにテレビの発達は家庭内や職場内の娯楽だったしろうとのものまね芸に,視聴者参加番組という形で,ひろく世間の目にふれる機会をつくった。〈そっくりショー〉というテレビ番組は,有名歌手のものまねを競いその場では有名歌手当人になったような拍手をもってむかえられるというしくみで,高度経済成長以後に初めて現れたマス文化の新しい型を示した。この場合には,まねられた歌手に対するパロディというものではなく,まねをとおして歌手と一体化して社会の中でつかの間の上昇を実感して楽しむという働きである。個性というものが模倣しやすいものだという,日本社会にひろく抱かれている通念が,この種の番組のむかえられる根底にある。それは西欧文化から伝えられた自我の固有性という範型と対照的に,日本の伝統的な通念が機械化時代に新しくよみがえったもので,個性の解体という共通の認識がひろくあることを証拠だてる。
執筆者:鶴見 俊輔
演劇用語としては,身体を使って何かを表現することをいう。古くは祭祀の場における呪術的行為として行われた。柳田国男は,物真似が合戦の武器であったともいう。《日本書紀》に〈俳優(わざおぎ)〉とか〈俳優者(わざおぎひと)〉と記すときの〈俳優〉は,滑稽な動作いわゆる物真似をして神や人を楽しませるわざを意味している。《新猿楽記》(1052ごろ成立)には種々物真似の演目が記され,猿楽能の大成者世阿弥は《花伝書》において〈物学(ものまね)条々〉の項を立てて詳述し,《申楽(さるがく)談儀》では〈遊楽の道は一切物真似なりといへども〉と説く。狂言も〈虚実の二つを以てするわざなり,いづれも物真似也〉(《わらんべ草》)という。演劇の基本に物真似を据えることは歌舞伎にも継承されているが,さらには芝居名代の名称に〈歌舞伎物真似,狂言物真似,放下(ほうか)物真似……〉などと記す。これらは〈芝居〉の意として使われたと解されよう。技芸としての物真似は,肉体による表現に言語をも伴うものへと変化する。後には〈声色〉〈声帯模写〉へと移行していく。〈少将物真似師吉兵衛を呼び,五郎さま朝比奈のこわいろの上手ゆへ頼みました〉(《傾城嵐曾我》1708),〈近年はやり出て役者の物まね,身ぶり迄を其まゝにうつして〉(《役者正月詞》1726)などの用例がある。移行時期は元禄期(1688-1704)のころである。
→演技
執筆者:鳥越 文蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…実験的にも,アゲハチョウの緑色と褐色のさなぎを,緑色や枯れた茶色の芝生の上に置いてニワトリに食べさせると,背景と同じ色のさなぎほど鳥に発見されにくいことが証明されている。
[標識的擬態mimicry]
わざと目だつことによって利益を得るもので,これはさらにベーツ型擬態,ミュラー型擬態,攻撃擬態の三つに分けられる。ベーツ型擬態は,本来まずくない動物がまずい味や毒をもつ別の動物(モデル)に外見だけを似せることによって外敵から免れるもので,まねをしている動物は擬態者mimicと呼ばれる。…
…
【〈演劇〉という語をめぐって】
〈演劇〉という単語は,たとえば清初に李漁が著した一種の演劇論《閑情偶寄》に用例がみられるように中国語起源であるが,日本語として用いられるようになったのは明治以後,西洋芸術の一表現様態(ジャンル)を前提にしてである。諸橋轍次《大漢和辞典》によれば,〈作者の仕組んだ筋書に本づき,役者が舞台で種々の扮装をなし,種々の言動を看客の前に演ずる芸術。しばゐ。狂言。わざをぎ。歌舞伎。…
…主体の側からいえば,行動を操作しながらそれに運ばれる関係を回復し,“見る”ことと“する”こと,制御と跳躍のきわどい均衡を回復する。その前提となるのが,目的をめざしながらその実現を断念する,という逆説的な態度であるが,これはまぎれもなく演技の本質であり,〈ふり〉をすること,〈ものまね〉をすることの本質であろう。演劇の演技とは,人生のあらゆる行動を惰性的な慣習から解放し,さらに実用的な目的の支配からも解放し,いいかえれば,それ自体を手段ではなく目的としてとらえなおし,隠蔽されていたリズム構造を確認することだ,と定義できよう。…
…歌舞伎役者の声音や口調を模擬する芸能。元禄(1688‐1704)ごろすでに幇間(ほうかん)によって宴席で行われていたという。正徳年間(1711‐16)にあやめ屋平治が名女方芳沢あやめの,また神田紺屋町の酒屋の下男が藤村半太夫の浄瑠璃を真似て評判となり,中村座の木戸口で掛合の声色を使ったのが有名。このように,芝居の木戸の呼びこみを〈木戸芸者〉と呼び,その日場内で演じられている芝居の一くさりを人気役者の声をまねて聞かせることが行われていた。…
… このような近代西洋語の概念に対して,日本で明治期にそれらの西洋型概念の訳語としても用いられるようになった〈俳優〉という中国語(漢語)が持つそもそもの意味合いや(別項の〈俳優〉参照),あるいは日本古代に用いられた〈わざおぎ(俳優)〉という言葉が意味するところのものは,かなりそのニュアンスを異にしている。それらはともに,物真似(ものまね)芸をする人を意味していた。また,〈俳優〉という言葉の周辺には〈役者〉という言葉が存在する。…
※「物真似」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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