尾張郷
おわりごう
「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。天平二〇年(七四八)四月二五日付の写書所解(正倉院文書)に「安宿郡奈加郷」がみえるが、この奈加(中)郷がのち尾張と改められた。郷域については確証を欠く。賀美郷の郷域比定も確かとはいえないが、同郷域に推定される駒ヶ谷・飛鳥(現羽曳野市)の地を上の郷として妥当であるならば、これに対し、片山・玉手・円明寺(現柏原市)の地を下とし、資母郷に比定し、国分(現柏原市)の地域を尾張郷にあてることができる。「大日本地名辞書」はその説をとる。
尾張郷
おはりごう
「和名抄」高山寺本は高山郷の次に記し、東急本では大前郷の次に記載され、ともに訓を欠く。尾張国は「和名抄」に「乎八里」と訓じているので、「おはり」と読むのに従う。ただし遺名は見当らない。また「上野国神名帳」群馬郡に「従三位尾張明神」がみえるが、該当する神社が見付からない。
尾張郷
おわりごう
「和名抄」東急本に「乎八利」の訓がある。現邑久郡邑久町尾張を中心とする地域に比定されている。推定郷域内には弥生時代前期の門田貝塚がある。平城宮跡から木簡「(表)邑久郡□□郷大村里」「(裏)尾治部加之居黒米六斗」が出土している。郷里制施行期である霊亀元年(七一五)から天平一二年(七四〇)の間のもの。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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