屋形原村(読み)やかたばるむら

日本歴史地名大系 「屋形原村」の解説

屋形原村
やかたばるむら

[現在地名]甘木市屋形原・美奈宜みなぎもり一―二丁目・同四丁目

板屋いたや村の北東、佐田さだ川の中流右岸に位置する。下座げざ郡に属し、北東は田代たしろ村、北西は夜須やす日向石ひゆうがいし村、南東は三奈木みなぎ村。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に「屋形原村」とみえ、同村は安楽寺(太宰府天満宮)の常灯料所であったが、昨年来、一色道猷の奉公人左近将監(飯田氏)によって押領されていた。この屋形原村は那珂なか郡の屋形原村(現福岡市南区)にあてる説が有力であるが、当地とみる説もある。元和九年(一六二三)から秋月藩領。文禄四年(一五九五)「屋かた原村」一二四石余などが堀田初左衛門尉に与えられている(同年一二月一日「羽柴秀俊知行宛行状」保井芳太郎氏所蔵文書)


屋形原村
やかたばるむら

[現在地名]南区屋形原一―五丁目・皿山さらやま二丁目・同四丁目・中尾なかお一―三丁目・花畑はなはた一―四丁目・若久わかひさ六丁目・桧原ひばる三丁目・柏原かしはら一―二丁目・鶴田つるた一―四丁目・老司ろうじ三丁目

若久村の南、片縄かたなわ山北東麓にある。東は野多目のため村・老司村、南は片縄村(現那珂川町)。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に屋形原村がみえ、安楽寺(太宰府天満宮)の常灯料所であったが、前年以来一色氏の奉公人左近将監(飯田集)によって押領されていた。この注進状にみえる屋形原村については那珂なか郡として当地にあてる説と、下座げざ郡として現甘木市の屋形原にあてる説の両様の解釈がある。


屋形原村
やかたばらむら

[現在地名]沼田市屋形原町

利根川の右岸、下川田しもかわだ村の南にある。「加沢記」によれば、天文二一年(一五五二)関東管領上杉憲政川田の地頭山名義季を頼って笹尾ささお高勢戸たかせどの要害に移り住んだ。この時、憲政を屋形様とよび、これにより高勢戸麓を屋形原と名付けたという。寛文郷帳では高二九七石余、うち田方二七石余・畑方二六九石余。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高一千三八一石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高五七一石余、反別は田方七町余・畑方九九町二反余。


屋形原村
やかたばるむら

[現在地名]上峰村大字つつみ字屋形原・鳥越とりごえ

鎮西ちんぜい(二〇一メートル)南麓丘陵と二塚ふたつか山丘陵の間に立地。正保絵図に村名がみえる。最近まで堀をめぐらした所があって、鎮西城主の居館跡といわれていた。村名はその館に起源すると伝えられる。当村および堤村付近の丘陵地から縄文式土器が出土し、鎮西山南麓には小円墳が群集していた(鎮西山南麓古墳群・屋形原古墳群・谷渡たにわたり古墳群)。

近世綾部あやべ郷に属し、佐賀藩の配分地で幕末には地米(年貢)一八〇石のうち佐野氏(総物成一八八石)が当村に一二六石を知行し、残りを小配分士五氏が知行していた(嘉永六年写の大小配分石高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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