山代庄・山代本郷(読み)やましろのしよう・やましろほんごう

日本歴史地名大系 「山代庄・山代本郷」の解説

山代庄・山代本郷
やましろのしよう・やましろほんごう

山代庄は現山代温泉やましろおんせん弓波ゆみなみ町・南郷なんごう町を結ぶ沖積平地の西半部からその南の丘陵部にかけての一帯に比定され、中世後期には山代本郷・忌浪いむなみ郷・南郷三郷よりなり、複雑な分割領有の状態にあった(→忌浪郷南郷村。山代本郷はその中心地で「和名抄」の江沼えぬま山背やましろ郷や大治二年(一一二七)八月日の江沼郡諸司等解(半井家本「医心方」巻二五裏文書)みえ山代郷に相当し、山代温泉付近に比定される。

白山之記」に白山末寺の五院は「山代庄之内歟」とあるが、これは後世の追記の可能性もある。「外記日記」には弘安一〇年(一二八七)八月一七日園基顕らが「加州山代庄」に下向したことがみえる。伝領の詳細は不明だが、中世前期に領家職を継承していたのは持明院家庶流の園家であることから、一二世紀後半、藤原(持明院)基家が加賀知行国主であった時期に、加賀守となった子の基宗・保家兄弟によって立庄され、兄弟の弟である園基氏の手に渡ったと推測される。室町院暉子(後堀河天皇皇女)の「本御領」(年未詳「室町院領目録」八代恒治氏旧蔵文書)となるのも、同院領が基家の娘(北白河院陳子)を母とする式乾門院利子(後高倉院皇女、室町院の伯母)から伝えられたことによるものであろう。室町院の死後は永嘉門院瑞子(宗尊親王皇女、後宇多天皇妃)を経て、正安四年(一三〇二)八月室町院領が折半されたとき持明院統に伝えられた(同目録)

観応三年(一三五二)六月五日「山代庄二分方地頭職」が加賀国守護富樫氏春に勲功の賞として与えられた(足利将軍家下文写「如意宝珠御修法日記」紙背文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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