忌浪郷
いむなみごう
古代律令制下の江沼郡忌浪郷(和名抄)の系譜を引く中世郷で、現弓波町近辺に比定される。文明一八年(一四八六)の「廻国雑記」に「いみなみ」、「天文日記」天文五年(一五三六)五月二日条に「忌波」とみえるので、中世にはイミナミとよんでいたようである。山代庄に含まれ、「蔭涼軒日録」延徳元年(一四八九)一二月一〇日条に忌浪の集昌首座から黒梅面一枚を贈られたとある。同書によると同二年一〇月一九日忌浪庄主真昌都寺(集昌首座と同一人か)から、園基富が本領と号して在所へ入れた代官を地下人たちが追出したという八月七日付の報告が届いた。これに対し京都南禅寺雲門庵は「山代庄忌浪郷領家方」は至徳三年(一三八六)四月三日に加賀守護富樫昌家から寄進されたもので、同庵では足利義満から義政までの歴代将軍の安堵を得、一〇五年間当知行を続けてきたと主張した(延徳二年一一月五日条)。当時雲門庵主が留守だったため、京都相国寺雲頂院主で蔭涼職の亀泉集証が、雲頂院・雲門庵とともに太清宗渭の開基という縁から幕府への訴訟を代行、忌浪郷政所に園家代官の入部阻止を指示した(同月一二日条・一六日条など)。
忌浪郷
いむなみごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、郷域内に比定される「延喜式」神名帳に載る江沼郡「忌浪神社」の訓に従う。文明一八年(一四八六)の「廻国雑記」などには「いみなみ」とみえる。郷域は現加賀市弓波町を中心とする江沼低地北部と考えられる。推定郷域内には富塚丸山古墳や富塚古墳群、七世紀末から八世紀初頭の建立と推定される弓波廃寺があり、長岡京跡出土木簡に「(表)忌浪郷戸主□下豊成戸米五斗」「(裏)延暦八年十一月三日」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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