山代郷(読み)やましろごう

日本歴史地名大系 「山代郷」の解説

山代郷
やましろごう

玖珂郡の北部、にしき川上流域一帯を占める中世の郷であるが、古代においても山代郷の名があったらしく、康平六年(一〇六三)の年号のある現美和みわ茶湯原さとうばら出土の鉄札銘(防長探古録)にその名がみえる。平安末期以降は藤原頼長・後白河法皇・後高倉院皇女安嘉門院などに伝領された荘園として山代庄とよばれた。

山代の名義について「山代温故録」は、郷俗伝来の説として、天津彦根命の子孫山代国造・山代忌寸・山代直らは山城国に住んでいたが、周防国は同じく天津彦根命の子孫である加米之意美が国造となっていた縁もあってか、山城国から同族が移り住むようになり、故国の名をもって山代と称したのであろうという。

中世後期の山代郷について「山代温故録」はまず六郷七畑をあげ、「六郷七畑、凡テ十三箇也、或ハ五箇八箇村トス(中略)所謂六郷トハ宇佐・本郷・阿賀・生見・広瀬・渋前、是也、藤谷・下畑・波野・河内・府谷・須川・深川、是七畑也」とし、次いで五箇八箇村について「五箇トハ藤谷・渋前・生見・下畑・阿賀、是也、此五箇ノ加村ニ、河内ノ郷ト西畑ノ畑也(中略)八箇トハ河山・広瀬・須川・深川・宇佐・本郷・波野・府谷、是ナリ、此加村、根笠ノ畑、三瀬川ノ郷ヲ添フ」と記す。


山代郷
やましろごう

現松江市南部、茶臼ちやうす山を中心とする山代町地域にあった国衙領。郷内に伊弉諾いざなぎ(現在の真名井神社)がある。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)の流鏑馬勤仕の四番に「山代郷」とみえる。鎌倉前期には杵築大社(出雲大社)の国造出雲義孝の支配が及んでくる。建長三年八月本来出雲国衙が行うべき伊弉諾社の修造が遅延したため、料田三町(うち五段は山代郷の公田内)を同社に寄進し、出雲義孝の沙汰として造営を行うよう命じている(「出雲国司庁宣」千家家文書)。また出雲国惣社(のちの六所神社)の灯油料田二町一段(うち山代郷七段)を本領主が果さないため、同月の出雲国司庁宣(同文書)によって本領主は改易され義孝の沙汰とされている。

建長七年二月には国衙在庁官人と考えられる高貞・義元が領有していた伊弉冊いざなみ(現在の神魂神社)供料田七段半(うち山代郷三段)と大行事代大中臣元頼が領有していた同社灯油田・惣社御神楽田二町(うち山代郷五段)についての訴訟の結果、三人は出雲府中いずもふちゆうを追放され、出雲義孝が領知している(「出雲国司庁宣」千家家文書)


山代郷
やましろごう

和名抄」高山寺本は「夜末之呂」、元和古活字本・東急本は「也万之呂」と読む。また同書名博本は「ヤマシロ」と訓を付す。平城宮跡出土木簡に「阿波国那賀郡山代戸主」とある。この郷について「阿波志」は「今称仁宇山」とし、「阿府志」は「仁宇和食山口荒田野等山ヨリノ地」としている。また明治一八年(一八八五)編の那賀郡郡誌は「今其遺跡詳ナラス阿波志ニ今称仁宇山トイヘルハ何ノ書ニ依レルニヤ其証知ラス」としている。


山代郷
やましろごう

「和名抄」所載の郷であるが、東急本・元和古活字本が山伐とするのは誤記とみられる。諸本とも訓を欠くが、ヤマシロであろう。「出雲国風土記」によれば、意宇郡一一郷のうちで郡家の北西三里余に郷長の家があり、所造天下大神大穴持命の子山代日子命がいたのでこの地名があるという。正倉が置かれていたとあるが、現松江市山代地区などの出雲国山代郷正倉跡がその遺構とされる。郡家の北西四里余に日置君目烈(出雲神戸の日置君鹿麻呂の祖)が造立した新造院、同じく二里に出雲臣弟山(飯石郡少領)が建立した新造院(僧一人)があり、いずれも厳堂を有した。前者は現松江市山代町の来美くるみ廃寺後者は同町の四王しわ寺跡に比定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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