日本歴史地名大系 「山代郷」の解説
山代郷
やましろごう
- 山口県:玖珂郡
- 山代郷
玖珂郡の北部、
山代の名義について「山代温故録」は、郷俗伝来の説として、天津彦根命の子孫山代国造・山代忌寸・山代直らは山城国に住んでいたが、周防国は同じく天津彦根命の子孫である加米之意美が国造となっていた縁もあってか、山城国から同族が移り住むようになり、故国の名をもって山代と称したのであろうという。
中世後期の山代郷について「山代温故録」はまず六郷七畑をあげ、「六郷七畑、凡テ十三箇也、或ハ五箇八箇村トス(中略)所謂六郷トハ宇佐・本郷・阿賀・生見・広瀬・渋前、是也、藤谷・下畑・波野・河内・府谷・須川・深川、是七畑也」とし、次いで五箇八箇村について「五箇トハ藤谷・渋前・生見・下畑・阿賀、是也、此五箇ノ加村ニ、河内ノ郷ト西畑ノ畑也(中略)八箇トハ河山・広瀬・須川・深川・宇佐・本郷・波野・府谷、是ナリ、此加村、根笠ノ畑、三瀬川ノ郷ヲ添フ」と記す。
山代郷
やましろごう
現松江市南部、
建長七年二月には国衙在庁官人と考えられる高貞・義元が領有していた
山代郷
やましろごう
山代郷
やましろごう
「和名抄」所載の郷であるが、東急本・元和古活字本が山伐とするのは誤記とみられる。諸本とも訓を欠くが、ヤマシロであろう。「出雲国風土記」によれば、意宇郡一一郷のうちで郡家の北西三里余に郷長の家があり、所造天下大神大穴持命の子山代日子命がいたのでこの地名があるという。正倉が置かれていたとあるが、現松江市山代地区などの出雲国山代郷正倉跡がその遺構とされる。郡家の北西四里余に日置君目烈(出雲神戸の日置君鹿麻呂の祖)が造立した新造院、同じく二里に出雲臣弟山(飯石郡少領)が建立した新造院(僧一人)があり、いずれも厳堂を有した。前者は現松江市山代町の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報