山口城跡(読み)やまぐちじようあと

日本歴史地名大系 「山口城跡」の解説

山口城跡
やまぐちじようあと

[現在地名]宇治田原町大字郷之口

宇治や青谷あおだに(現城陽市)方面から田原盆地に入った入口近く、田原川南側にあった戦国時代末期の城で、織田信長が山口甚介秀康に命じて築城させた。

山口秀康は近江甲賀こうが(現滋賀県)を根拠とした甲賀五三家の一、多羅尾光俊の六男で、信長の臣として仕えたが、宇治田原を交通上の拠点とみた信長は、その押えとして郷之口ごうのくちの地に城を築かせた。秀康は城の構築と並行して田原郷の郷侍荒木一族などを城の前に居住させ、ほん町に士分、うら町に民家というような区分をした小城下町を築いたといわれる。

天正一〇年(一五八二)本能寺の変を泉州さかい(現大阪府堺市)で知った徳川家康が、河内飯盛いいもり(現大阪府四條畷市付近)より木津きづ川の草内くさじの渡(現田辺町)を経て浜松はままつ(現静岡県浜松市)に帰城する途中、秀康は配下を草内の渡まで遣わし、家康一行を城に迎えた(譜牒余録)


山口城跡
やまぐちじようあと

[現在地名]所沢市山口 児泉

柳瀬やなせ川左岸、狭山丘陵東部の南側に開ける緩傾斜地にある。東西二〇〇メートル・南北二〇〇メートル。県指定旧跡。現在は西武狭山線敷設と柳瀬川の河川改修によって大きく削平され、東西に分断されている。昭和五一年(一九七六)以来四回の発掘調査が行われ、堀跡が発掘された。底部には水平堆積を示す粘土質の覆土が確認され、水堀として使用された可能性がある。出土遺物は陶磁器片・板碑片・砥石などである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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