町谷村(読み)まちやむら

日本歴史地名大系 「町谷村」の解説

町谷村
まちやむら

[現在地名]今市市町谷

北東へ流れる大谷だいや川北岸段丘上にあり、村域は東西に細長い。河内かわち郡に属し、北はとどろく村、南は大谷川を境に針貝はりがい村、集落西部の台地上に散在し、東端関沢せきのさわ(関ノ沢)の集落がある。郷帳類では町屋村と記される。日光山往古社領六十六郷のうちに「関沢郷」がある。下総山川藩領時の寛永七年(一六三〇)の「原村関沢村」と「原村内針貝村」の検地帳(秋元正俊文書)があり、大谷川を挟んだ針貝村と合せてはら村といわれていた。関沢村は畑屋敷のみで九町五反余、屋敷一〇筆、名請人は九人、うち五人は針貝村と重複する。大谷川南岸に当村の飛地があった。また同年の「町谷村分、はりかい村分、惣高三百五十三石八斗六合」と記した名寄帳(同文書)には「まちや分」として四人、「やなは分はりかいの内」として二人、「せきさわ分」として四人、「はりかい分」として一人の計一〇人の持高が記される。


町谷村
まちやむら

[現在地名]所沢市山口やまぐち

打越うちこし村の南にあり、東は荒幡あらはた村、西は菩提木ぼだいぎ村。狭山丘陵山口谷に位置する村々の一。村名は町屋とも書き、かつて山口城下の町屋があったことに由来するという。入間いるま郡山口領に属した(風土記稿)。天正一九年(一五九一)五月武蔵孫左衛門(吉正)が「山口之内町屋村」三九石余を宛行われ、寛永二年(一六二五)七月二七日には小林権平(重宣)が町屋村の内三三石余を宛行われている(記録御用所本古文書)。田園簿では山口村の内として記され、旗本小林領・武蔵領および同坂部領(一〇三石)などに相当するとみられる。


町谷村
まちやむら

[現在地名]浦和市町谷一―四丁目・南元宿みなみもとじゆく二丁目・西堀にしぼり五丁目・新開しびらき二―三丁目・道場どうじよう二―三丁目・町谷

本宿もとじゆく村の西にあり、荒川沖積平野に立地する。田園簿には町屋村とあり、田一五八石余・畑六三石余で、旗本宮崎・同牧野領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本藤沢領。化政期には幕府領で、同領のまま幕末に至った(「風土記稿」・改革組合取調書など)。検地は天正一九年(一五九一)に行われたという。平野原ひらのはらと荒川縁辺の流作場に持添新田がある。与野領に属し、化政期の家数四八(以上「風土記稿」)。中山道浦和宿の定助郷を勤め、寛政八年(一七九六)の勤高二一九石(「浦和宿伝馬勤方議定書写」細淵家文書)


町谷村
まちやむら

[現在地名]桶川市朝日あさひ一―三丁目・神明しんめい一―二丁目・みなみ二丁目・若宮わかみや二丁目

桶川宿の南にあり、東境を中山道が南東から北西に通る。足立郡大谷おおや領に属し(風土記稿)、大谷領町谷村とも称した。田園簿では田八石余・畑七二石余・山高四石、旗本柴田領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。安政二年(一八五五)村差出帳(矢部家文書)では幕府領。検地は寛文元年(一六六一)新田検地は寛延二年(一七四九)に行われたという(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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