日本歴史地名大系 「山奥村」の解説 山奥村やまおくむら 岡山県:阿哲郡大佐町山奥村[現在地名]大佐町上刑部(かみおさかべ)小坂部(おさかべ)村の北に位置し、東は京見(きようみ)山(八五四・二メートル)を挟んで美作国曲(まがり)村(現真庭郡勝山町)。小坂部川が流れ、集落は古谷(ふるや)川が小坂部川に流入する地点の定藤(さだとう)、小坂部川支流大津(おおつ)川沿いの夏日(なつひ)・徳定(とくさだ)・久清(ひさきよ)・実清(さねきよ)・落合(おちあい)、同じく支流つづら畑(はた)川沿いのつづら畑に散在。元禄六年(一六九三)松山藩水谷氏の断絶までは同藩領であったとみられるが、郷村帳類に村名はみえない。同八年の旧松山領新高帳(羽場文書)に村名がみえ、古高五三〇石余・新高六二六石余。 山奥村やまおくむら 大分県:大野郡犬飼町山奥村[現在地名]犬飼町大寒(おおそう) 上山奥(かみやまおく)・下山奥(しもやまおく)高松(たかまつ)村の南、大野川支流三重(みえ)川の東岸にある。対岸は深野(ふかの)村(現三重町)。江戸時代を通じ臼杵藩領。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には山奥村が高松村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、鍋田村組に属し高一一二石余。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田方五三石余・畑方七四石余、日損所と注記される。正保郷帳では野津之(のつの)院に属した。 山奥村やまのおくむら 福井県:福井市旧足羽郡地区山奥村[現在地名]福井市山奥町・西木田(にしきだ)四―五丁目・月見(つきみ)二―五丁目・みのり三―四丁目福井城下西南の足羽山南東麓にあり、東は福井城下木田(きだ)町、西は門前(もんぜん)村。文禄二年(一五九三)一二月一四日付堀秀治奉行人連署状(橘家文書)に「木田庄山奥村寿覚院屋敷地子之事」とみえ、木田庄の一村であった。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図によれば高一一〇〇・二一七石。正保郷帳によると田方九五〇石余・畠方一四九石余。福井藩領。福井城下から南に延びる北陸街道は柴田勝家によって開かれたと伝え、それ以前の中世の街道は浅水(あそうず)から西側の山麓線を縫って、当村から木田・北庄(きたのしよう)(福井)へ通じていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by