野津院(読み)のつのいん

日本歴史地名大系 「野津院」の解説

野津院
のつのいん

現野津町の大部分犬飼いぬかい町東部の野津川流域に比定される国衙領。「和名抄」記載の大野郡三重みえ郷から分れたとされる(豊後国志)。野津院の名称は諸税を格納する倉院の所在地であったことによると推定されている。鎌倉時代初期の成立とみられる宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に野津院と野津郷がみえ、西大門外の置路甃や若宮周囲の玉垣、若宮内殿などの修造を一国平均役として負担している。豊後国弘安図田帳には国領の野津院がみえ、面積は六〇町、地頭職は野津五郎頼宗(法名阿一)とある。頼宗は大友親秀の五男で、文永の役の恩賞として野津院地頭職を与えられ、当地に入部、野津氏を名字とした(野津町誌)

建武四年(一三三七)三月五日の一色道猷軍勢催促状案(吉岡文書)は大友野津大炊助太郎に宛てられている。この人物は翌五年正月日の軍忠状(同文書)では大友一族野津大炊助大郎親久とみえる。親久は建武四年三月二〇日勲功の賞として稙田わさだ庄領家職内の田地五町などを与えられ、翌五年正月には南都警固にあたっている。貞治三年(一三六四)二月二日兵庫助に任じられた兵衛尉藤原貞久は親久の嫡子であろう(「後光厳天皇口宣案」同文書)。そのほか野津を名乗る人物として、建武二年八月二七日とまり(現大野町)に乱入して金品を奪い取った野津式部大夫入道(同年九月日「泊寺院主代住房濫妨人交名注文」志賀文書)大友貞載に従った孫次郎能憲(建武四年三月日「志賀頼房軍忠状」同文書)、角違一揆中の野津七郎入道宝秀と野津権五郎藤原直秀(年月日未詳「角違一揆契約状写」薬師寺文書など)、肥後葦北あしきた庄内に所領をもっていた野津彦太郎(建武五年三月七日「少弐頼尚知行預ケ状案」詫摩文書)、田原貞広の所領を押領した野津孫太郎(暦応四年一〇月一九日「一色範氏施行状写」碩田叢史田原文書)、延元三年(一三三八)阿蘇惟澄に討たれた野津宮内卿、翌四年惟澄と戦った野津三郎蔵人らがいた(正平三年九月日「恵良惟澄軍忠状」阿蘇文書)。なお惣領家は吉岡を称するようになったと伝え、天文一九年(一五五〇)には吉岡長増が加判衆に列している(九月一七日「大友氏加判衆連署書状」怒留湯文書)

野津頼宗以降波津久・戸上・椎原・荒瀬・久土知・岩屋・御久里・佐土原・笠良木・長小野・小河内など野津院内の地名を名乗る庶流が出た(常楽寺本「大友氏系図」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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