山本覚馬(読み)やまもとかくま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本覚馬」の意味・わかりやすい解説

山本覚馬
やまもとかくま
(1828―1892)

同志社(どうししゃ)創立結社人の一人。会津藩士山本権八・佐久の長男として若松城下に生れる。新島襄の妻となる山本八重は妹。佐久間象山(しょうざん)の塾に学び、藩校日新館(にっしんかん)の蘭学所教授となる。1864年(元治1)藩主松平容保(かたもり)に従い京都に出て会津砲兵隊を指揮、洋学所を開き諸藩士に教授する。1868年(慶応4)鳥羽(とば)・伏見の戦に際し薩摩藩邸に幽閉され、その間「管見(かんけん)」を執筆。1869年(明治2)京都府顧問となり開明的諸施策を推進。中国在住アメリカ人宣教師W・マーティンの『天道溯原(てんどうそげん)』を読み、その影響を受ける。1875年新島襄(にいじまじょう)の同志社英学校創設に協力、連名で「私学開業願」を京都府に提出。新島の死後、臨時総長となる。

[杉井六郎]

『青山霞村著・田村敬男編『改訂増補山本覚馬伝』(1976・京都ライトハウス)』『青山霞村著『山本覚馬伝』複製(1996・大空社)』

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朝日日本歴史人物事典 「山本覚馬」の解説

山本覚馬

没年:明治25.12.28(1892)
生年:文政11.1.11(1828.2.25)
明治期の都市プランナーで教育者。妹は,のちの新島襄夫人八重子。会津藩士の子として鶴ケ城内(福島県会津若松市)で生まれる。英学,蘭学,洋式砲術を学んだのち元治1(1864)年の蛤御門の変では砲兵隊を指揮し活躍するが,明治1(1868)年の鳥羽・伏見の戦で薩摩軍に捕らえられ獄に繋がれる。しかしその能力を惜しんだ新政府の赦免を受け,同2年京都府顧問に迎えられ,2代目府知事槙村正直のブレーンとして,荒廃した京都の産業振興に尽力。同8年には新島の同志社創立に当たって共に結社人となる。

(坪内祐三)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本覚馬」の解説

山本覚馬 やまもと-かくま

1828-1892 幕末-明治時代の武士,政治家。
文政11年1月11日生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)藩士。藩校日新館の蘭学所教授。鳥羽・伏見の戦いで薩摩(さつま)藩邸に幽閉された。明治2年京都府顧問,8年義弟の新島襄(じょう)と同志社を創立した。京都府会初代議長。明治25年12月28日死去。65歳。初名は義衛。号は相応斎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の山本覚馬の言及

【新島襄】より

…74年アメリカン・ボード年会で,日本にキリスト教主義大学を設立することを訴えて大きな反響を得,宣教師として帰国。75年京都府顧問山本覚馬,ボード宣教師J.D.デービスの協力で官許同志社英学校を京都に設立。翌年熊本バンドの入学で,同志社教育と日本組合教会の基礎は確立した。…

※「山本覚馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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