新島襄(読み)ニイジマジョウ

デジタル大辞泉 「新島襄」の意味・読み・例文・類語

にいじま‐じょう〔にひじまジヤウ〕【新島襄】

[1843~1890]教育家。江戸の生まれ。密出国して渡米。アマースト大学を卒業。岩倉使節団に随行し欧米の教育制度を視察。帰国後、京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を創立。キリスト教精神に基づく教育に専念した。

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精選版 日本国語大辞典 「新島襄」の意味・読み・例文・類語

にいじま‐じょう【新島襄】

  1. 明治の教育家、宗教家。群馬県安中出身。元治元年(一八六四)渡米、アマースト大学を卒業後、キリスト教に入信。明治五年(一八七二岩倉使節団に随行し、アメリカおよびヨーロッパの教育制度などを視察。同七年帰朝。翌年、京都に同志社英学校(のちの同志社大学)を創設した。天保一四~明治二三年(一八四三‐九〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新島襄」の意味・わかりやすい解説

新島襄
にいじまじょう
(1843―1890)

キリスト教牧師、教育者。同志社創立者。江戸一ツ橋の安中(あんなか)藩邸に生れる。父民治(1807―1887)・母とみ(1807―1896)の長男。幼名は七五三太(しめた)、諱(いみな)は経幹(つねもと)。1856年(安政3)藩中の子弟から選抜されて蘭学を学び、1860年(万延1)江戸築地(つきじ)の軍艦操練所に入り、航海実習に従事。1864年(元治1)6月アメリカ船で箱館から海外に脱出、翌1865年(慶応1)7月ボストンに到着。船主アルフィアス・ハーディAlpheus Hardy(1815―1887)夫妻の庇護を受け、1866年12月受洗。翌1867年9月アマースト大学に入学、1870年(明治3)卒業。アンドーバー神学校に進み、1874年7月特別コースを卒業した。なお、1871年7月明治政府から「米国留学」の免許を受け、1872年3月から翌1873年9月にかけて岩倉遣外使節に随行、各国学校教育制度の調査を担当した。1874年9月ボストンの教会で按手礼を受けて牧師となり、10月アメリカン・ボードの年次大会で日本にキリスト教主義学校の設立を訴え、その支持を得て帰国。1875年11月29日京都府顧問山本覚馬を結社人とし、アメリカ人宣教師デービスJerome Dean Davis(1838―1910)を担当教師として同志社英学校を京都に創設した。1877年4月同志社分校女紅場(にょこうば)(のち同志社女学校専問部)を開校。1884年4月から翌1885年12月まで欧米を巡歴して教育と伝道の方策を固めて帰国。1887年仙台に東華学校、京都に同志社病院、京都看病婦学校を開き、1888年11月「同志社大学設立の旨意」を全国に公表し、私学教育の特性を高唱し、徳育を基本とする自由教育を標榜(ひょうぼう)した。大学設立運動のなかば、神奈川県大磯で死去した。1912年専門学校令による同志社大学が開校した。『新島襄全集』全10巻(1983~1996)がある。

[杉井六郎 2018年3月19日]

『ゼー・デー・デビス著、村田勤訳『新島襄先生之伝』(1891・警醒社)』『ゼー・デー・デビス著、山本美越乃訳補『新島襄先生伝』(1924・警醒社)』『和田洋一著『新島襄』(1973・日本基督教団出版局/岩波現代文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「新島襄」の意味・わかりやすい解説

新島襄 (にいしまじょう)
生没年:1843-90(天保14-明治23)

キリスト教伝道者,教育家。上州安中藩士で,蘭学,航海術を学び,欧米文明とその宗教に感銘し,これを習得して日本に尽くすことを決意。1864年箱館より密航し,アメリカの会衆派信徒ハーディAlpheus Hardy夫妻の世話でキリスト教入信後,アマースト大学,アンドーバー神学校を卒業。その間72年訪米した岩倉遣外使節団に同行して欧米の教育事情を視察。74年アメリカン・ボード年会で,日本にキリスト教主義大学を設立することを訴えて大きな反響を得,宣教師として帰国。75年京都府顧問山本覚馬,ボード宣教師J.D.デービスの協力で官許同志社英学校を京都に設立。翌年熊本バンドの入学で,同志社教育と日本組合教会の基礎は確立した。同志社がキリスト教主義教育を唱える私学であったため,彼は政府,京都府庁のさまざまな圧迫をうけ,また伝道者養成のみを意図するボードとの対立に苦慮した。82年ころよりキリスト教を徳育の基本とし,自由自治の精神に立ち,高度な学問を教える私立総合大学の設立が国家興隆の基礎であると唱え,同志社大学設立に奔走したが,大磯で病死。彼は会衆主義(会衆派教会)を知っていたので,これに立つ教会を各地に設立し,その伝道を支え,一致教会との合同運動(1886-90)には反対した。彼を貫くものは,神の愛の摂理に自己をゆだね,武士的気概をもって神と日本に仕えようとする使命感であった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新島襄」の意味・わかりやすい解説

新島襄
にいじまじょう

[生]天保14 (1843).1.14. 江戸
[没]1890.1.23. 神奈川,大磯
牧師,教育者。幼名七五三太(しめた)。父民治は上州安中藩右筆。16歳のとき海軍伝習所に入り蘭学を学んだ。元治1(1864)年アメリカ合衆国への渡航を志して脱藩,沿岸測量に従事しつつ箱館に行き,英語を学んだ。同 1年,国禁を犯してアメリカ商船『ベルリン』に乗り,中国の上海でアメリカ船『ワイルド・ロバー』に乗り換え,慶応1(1865)年アメリカのボストンに着いた。同 2年に受洗。同 3年アマースト大学に入学して理学を学び,明治3(1870)年同大学を卒業後,アンドバー神学校に入学した。同 4年岩倉具視全権大使とする岩倉遣外使節一行の案内役としてヨーロッパに渡った。1874年キリスト教に基づく精神主義教育を行なう学校を日本に設立するために帰国。翌 1875年京都に同志社英学校(→同志社大学)を,1877年には同志社女学校を設立,みずから青年子女の教育にあたった。その教育方針は,信仰に富み高尚な品性を備えた人格陶冶を基本とする。大学設立を目指して各地での伝道のかたわら資金募集に奔走したが,道半ばで病死した。門下に海老名弾正横井時雄,浮田和民,徳富蘇峰徳冨蘆花安部磯雄山川均らがいる。1954年『新島襄書簡集』が刊行された。

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朝日日本歴史人物事典 「新島襄」の解説

新島襄

没年:明治23.1.23(1890)
生年:天保14.1.14(1843.2.12)
明治前期の宗教家,教育者。安中藩(群馬県)藩士新島民治と妻とみの長男として,江戸神田一ツ橋通小川町の安中藩邸内で生まれた。幼名を七五三太,諱は経幹。英文署名は Joseph Hardy Neejima,漢字署名は約瑟。明治8(1875)年からその略である襄と称した。添川簾斎から漢学を,但馬順輔から蘭学を学び,安中藩祐筆補助役,御供徒士となる。万延1(1860)年幕府の軍艦操練所に入り,文久2(1862)年から甲賀源吾の塾で数学,航海術などを学び,航海実習に参加。3年からは英学に転じ,アメリカおよびキリスト教に強い関心を持つようになった。元治1(1864)年箱館の武田斐三郎の塾に入り,そのかたわらロシア人司祭ニコライの家に住み,日本語教師となる。 元治1年国禁を犯してアメリカに密航。フィリップス・アカデミー英語科を経て,明治3(1870)年アーモスト大学卒業。日本人としてはじめて学士号(理学士)を取得した。その間,慶応2(1866)年に受洗。大学卒業後はアンドーバー神学校に入り,明治7年卒業。神学校在学中,森有礼の斡旋で留学免許状を取得し,岩倉遣外使節団の田中不二麿の通訳となる。田中のヨーロッパ教育視察に随行し,調査報告書『理事功程』の作成にかかわった。7年アメリカン・ボードの日本ミッション宣教師補となり,日本にキリスト教主義大学の設立を訴え,約5000ドルの寄付金を得る。同年11月に帰国。8年山本覚馬らの協力を得て,京都に同志社英学校を創設,10年には女学校を開校するとともに,国内伝道を進めた。16年にはアメリカ滞在中から抱いていた大学設立構想を『同志社大学校設立の旨意』として発表。以後病をおして大学設立運動に奔走する。17年4月から18年12月まで欧米旅行。帰国後仙台の東華学校や京都看病婦学校の開校,同志社病院の開院に携わる。23年大学設立運動途上に神奈川県大磯にて客死。<著作>新島襄全集編集委員会編『新島襄全集』全10巻

(米山光儀)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

大学事典 「新島襄」の解説

新島襄
にいじまじょう
1843-90(天保14-明治23)

上野安中藩出身。蘭学を修めたのち,航海術や英学を学び,キリスト教に深く感銘。1865年(慶応1)国禁を犯してボストンに渡り,アムハースト・カレッジ卒業後,アンドゥバー神学校に進む。1972~73年(明治5~6)に岩倉具視遣外使節訪米時に通訳を務め,とくに文部理事官田中不二麿に随行して欧米の教育事情を視察し,使節団の報告書ともいうべき『理事功程』の編纂に尽力した経験から,軍事力以上に国民精神の教育が一国の独立に重要と確信する。日本でのキリスト教主義学校の建設を訴え,アメリカン・ボードの協賛を得て宣教師補として1874年に帰国,京都府顧問山本覚馬,宣教師デーヴィス(Jerome Dean Davis, 1838-1910)の協力のもと,75年京都に同志社英学校(同志社大学の前身)を創設した。布教のためではなく,「青年の精神と品行とを陶冶する活力」をもつキリスト教主義による教育を強調し,「一国の良心とも謂ふ可き人々」の育成を目指した。この点,同じ自由と自治を標榜したリベラルな私学でありながら,学問的知識の習得を重視した慶應義塾と対照的と評される。新島はいち早く大学設立を計画し,1888年に「同志社大学設立の旨意」を公表。資金援助のため奔走するなか,設立前に病没した。
著者: 杉谷祐美子

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

百科事典マイペディア 「新島襄」の意味・わかりやすい解説

新島襄【にいじまじょう】

プロテスタントの教育者。上州安中藩士の家に生まれ,漢学・蘭学を学び,漢訳聖書を読んで感動。欧米文明とその宗教を学んで日本にもたらそうと1864年脱藩渡米,キリスト教に入信し,理学・神学を学んで帰国した。1875年同志社英学校(同志社大学の前身)を創設,キリスト教的自由自治主義の教育で多くの青年を感化した。とくに,熊本洋学校に学んで同志社に入学した小崎弘道海老名弾正徳富蘇峰らは〈熊本バンド〉として著名。組合教会の指導者としても貢献。
→関連項目安中[市]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新島襄」の解説

新島襄
にいじまじょう

1843.1.14~90.1.23

同志社の創立者。幼名七五三太(しめた),諱は経幹。安中(あんなか)藩士。江戸幕府の軍艦操練所に学び,1864年(元治元)箱館から密航しアメリカで勉強。ボストンの教会で按手礼(あんしゅれい)をうけ,アメリカン・ボードの宣教師としての任命書をうけて74年(明治7)帰国。アメリカでの名ジョセフを襄と改名。翌年京都府顧問の山本覚馬,アメリカン・ボード宣教師J.D.デービスの協力により,同志社英学校を創立し,女学校・同志社病院・京都看病婦学校を開き,仙台に分校として東華学校を設立。88年「同志社大学設立の旨意」を発表して設立運動を始めたが,90年病死。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「新島襄」の解説

新島襄 にいじま-じょう

1843-1890 明治時代の宗教家,教育者。
天保(てんぽう)14年1月14日生まれ。もと上野(こうずけ)(群馬県)安中藩士。元治(げんじ)元年アメリカに密航し,理学,神学をまなぶ。明治5年岩倉使節団に随行して欧米の教育事情を視察。7年宣教師として帰国,翌年同志社英学校(現同志社大)を設立した。「新島襄全集」がある。明治23年1月23日死去。48歳。アンドーバー神学校卒。名は経幹。
【格言など】天を怨みず,人を咎めず(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「新島襄」の解説

新島襄
にいじまじょう

1843〜90
明治前期の宗教家・教育家
上野 (こうずけ) (群馬県)安中藩出身。幕末に脱藩し,箱館から密航し渡米。アマースト大学で理学,アンドバー神学校で神学を修め,1874年宣教師として帰国した。翌 '75年キリスト教主義の同志社(英学校)を設立。官学の功利・主知主義に対し,在野的なキリスト教的自由主義教育を目ざし,門下から徳富蘇峰・安部磯雄らを輩出した。

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世界大百科事典(旧版)内の新島襄の言及

【同志社大学】より

…京都市上京区に本部を置くキリスト教主義の私立大学。新島襄によって1875年に同志社英学校として創設された。1904年同志社専門学校,12年に専門学校令による同志社大学となり,20年には大学令による大学となった。…

※「新島襄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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