キリスト教牧師、教育者。同志社創立者。江戸一ツ橋の安中(あんなか)藩邸に生れる。父民治(1807―1887)・母とみ(1807―1896)の長男。幼名は七五三太(しめた)、諱(いみな)は経幹(つねもと)。1856年(安政3)藩中の子弟から選抜されて蘭学を学び、1860年(万延1)江戸築地(つきじ)の軍艦操練所に入り、航海実習に従事。1864年(元治1)6月アメリカ船で箱館から海外に脱出、翌1865年(慶応1)7月ボストンに到着。船主アルフィアス・ハーディAlpheus Hardy(1815―1887)夫妻の庇護を受け、1866年12月受洗。翌1867年9月アマースト大学に入学、1870年(明治3)卒業。アンドーバー神学校に進み、1874年7月特別コースを卒業した。なお、1871年7月明治政府から「米国留学」の免許を受け、1872年3月から翌1873年9月にかけて岩倉遣外使節に随行、各国学校教育制度の調査を担当した。1874年9月ボストンの教会で按手礼を受けて牧師となり、10月アメリカン・ボードの年次大会で日本にキリスト教主義学校の設立を訴え、その支持を得て帰国。1875年11月29日京都府顧問山本覚馬を結社人とし、アメリカ人宣教師デービスJerome Dean Davis(1838―1910)を担当教師として同志社英学校を京都に創設した。1877年4月同志社分校女紅場(にょこうば)(のち同志社女学校専問部)を開校。1884年4月から翌1885年12月まで欧米を巡歴して教育と伝道の方策を固めて帰国。1887年仙台に東華学校、京都に同志社病院、京都看病婦学校を開き、1888年11月「同志社大学設立の旨意」を全国に公表し、私学教育の特性を高唱し、徳育を基本とする自由教育を標榜(ひょうぼう)した。大学設立運動のなかば、神奈川県大磯で死去した。1912年専門学校令による同志社大学が開校した。『新島襄全集』全10巻(1983~1996)がある。
[杉井六郎 2018年3月19日]
『ゼー・デー・デビス著、村田勤訳『新島襄先生之伝』(1891・警醒社)』▽『ゼー・デー・デビス著、山本美越乃訳補『新島襄先生伝』(1924・警醒社)』▽『和田洋一著『新島襄』(1973・日本基督教団出版局/岩波現代文庫)』
キリスト教伝道者,教育家。上州安中藩士で,蘭学,航海術を学び,欧米文明とその宗教に感銘し,これを習得して日本に尽くすことを決意。1864年箱館より密航し,アメリカの会衆派信徒ハーディAlpheus Hardy夫妻の世話でキリスト教入信後,アマースト大学,アンドーバー神学校を卒業。その間72年訪米した岩倉遣外使節団に同行して欧米の教育事情を視察。74年アメリカン・ボード年会で,日本にキリスト教主義大学を設立することを訴えて大きな反響を得,宣教師として帰国。75年京都府顧問山本覚馬,ボード宣教師J.D.デービスの協力で官許同志社英学校を京都に設立。翌年熊本バンドの入学で,同志社教育と日本組合教会の基礎は確立した。同志社がキリスト教主義教育を唱える私学であったため,彼は政府,京都府庁のさまざまな圧迫をうけ,また伝道者養成のみを意図するボードとの対立に苦慮した。82年ころよりキリスト教を徳育の基本とし,自由自治の精神に立ち,高度な学問を教える私立総合大学の設立が国家興隆の基礎であると唱え,同志社大学設立に奔走したが,大磯で病死。彼は会衆主義(会衆派教会)を知っていたので,これに立つ教会を各地に設立し,その伝道を支え,一致教会との合同運動(1886-90)には反対した。彼を貫くものは,神の愛の摂理に自己をゆだね,武士的気概をもって神と日本に仕えようとする使命感であった。
執筆者:土肥 昭夫
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(米山光儀)
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上野安中藩出身。蘭学を修めたのち,航海術や英学を学び,キリスト教に深く感銘。1865年(慶応1)国禁を犯してボストンに渡り,アムハースト・カレッジ卒業後,アンドゥバー神学校に進む。1972~73年(明治5~6)に岩倉具視遣外使節訪米時に通訳を務め,とくに文部理事官田中不二麿に随行して欧米の教育事情を視察し,使節団の報告書ともいうべき『理事功程』の編纂に尽力した経験から,軍事力以上に国民精神の教育が一国の独立に重要と確信する。日本でのキリスト教主義学校の建設を訴え,アメリカン・ボードの協賛を得て宣教師補として1874年に帰国,京都府顧問山本覚馬,宣教師デーヴィス(Jerome Dean Davis, 1838-1910)の協力のもと,75年京都に同志社英学校(同志社大学の前身)を創設した。布教のためではなく,「青年の精神と品行とを陶冶する活力」をもつキリスト教主義による教育を強調し,「一国の良心とも謂ふ可き人々」の育成を目指した。この点,同じ自由と自治を標榜したリベラルな私学でありながら,学問的知識の習得を重視した慶應義塾と対照的と評される。新島はいち早く大学設立を計画し,1888年に「同志社大学設立の旨意」を公表。資金援助のため奔走するなか,設立前に病没した。
著者: 杉谷祐美子
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1843.1.14~90.1.23
同志社の創立者。幼名七五三太(しめた),諱は経幹。安中(あんなか)藩士。江戸幕府の軍艦操練所に学び,1864年(元治元)箱館から密航しアメリカで勉強。ボストンの教会で按手礼(あんしゅれい)をうけ,アメリカン・ボードの宣教師としての任命書をうけて74年(明治7)帰国。アメリカでの名ジョセフを襄と改名。翌年京都府顧問の山本覚馬,アメリカン・ボード宣教師J.D.デービスの協力により,同志社英学校を創立し,女学校・同志社病院・京都看病婦学校を開き,仙台に分校として東華学校を設立。88年「同志社大学設立の旨意」を発表して設立運動を始めたが,90年病死。
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…京都市上京区に本部を置くキリスト教主義の私立大学。新島襄によって1875年に同志社英学校として創設された。1904年同志社専門学校,12年に専門学校令による同志社大学となり,20年には大学令による大学となった。…
※「新島襄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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