山田市郎兵衛(読み)ヤマダ イチロベエ

20世紀日本人名事典 「山田市郎兵衛」の解説

山田 市郎兵衛
ヤマダ イチロベエ

明治・大正期の実業家



生年
嘉永4年5月(1851年)

没年
昭和3(1928)年7月27日

出身地
大阪府

経歴
少年時代から兄のお供で行商に出たが、学問好きで伴林光平に国学・漢学を学ぶ。行商中の旅宿で大坂の筆墨商・熊野屋の主人・先代山田市郎兵衛と出会ったのが縁で、熊野屋の業務に精励、明治9年25歳の時養子となり市郎兵衛の名を継ぐ。筆墨から絵の具へ、そして染料・工業薬品などの販売に転じる。のち欧州で発明・開発された合成染料を知り京染め業者に使用を説き、株式会社の大同藍を設立して輸入販路を拡大、29年大阪染料組合取締に選ばれるほど信用を得た。39年工業薬品を朝鮮・中国に輸出して利益を上げ、インドとの綿花貿易業を興し成功を収める。大阪曹達・東成土地など各種事業の創設・経営に関与し、大阪商業会議所議員も務め、大阪財界に重きをなした。一方、公共・慈善大金を投じ、帝塚山学院・大阪府立女子専門学校(現・大阪女子大学)の創設、病院の設立や橋梁・道路の普請寺社の修築にも関わった。長男・市治郎が後を継ぐが、古稀を過ぎても家業に励んだという。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田市郎兵衛」の解説

山田市郎兵衛 やまだ-いちろべえ

1851-1928 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)4年5月生まれ。大坂の人。絵の具商の養子となるが,綿花貿易業をおこし,成功をおさめる。帝塚山学院,大阪府立女子専門学校の設立にもかかわった。昭和3年7月27日死去。78歳。本姓中野

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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