山田郷
やまだごう
町田川両岸と玖珠川左岸の万年山を取囲む現九重町の地域、および郡西部の現玖珠町戸畑・平川・魚返・代太郎・萩原などを含む地域に比定される。郷内の地名では延応元年(一二三九)一二月九日の関東下知状案(大友文書所収帆足文書)に戸幡昌蒲佐古とあるのが早いが、豊後国弘安田代注進状には山田郷八〇町のうち本家は本庄が城興寺(現京都市南区)、新庄が安嘉門院跡とあり、以下山階村・魚返村・戸幡菖蒲迫・「粟来」名が記載される。嘉元三年(一三〇五)七月二六日には一期知行として「山内」などが堀川准后(源基子)に譲られている(「亀山上皇処分状」亀山院凶事記)。同四年六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)では長野庄山田とあり、山城安楽寿院(現京都市伏見区)領となっている。観応元年(一三五〇)一〇月二六日勲功の賞として田原貞広が拝領した山田郷などの村々地頭職が嫡子氏能(徳増丸)に譲与されているが(「田原貞広譲状」大友家文書録)、延文五年(一三六〇)八月二八日大友氏時が玖珠郡山田郷などに対する帆足道種らの濫妨を退け、下地を田原氏能に渡すように命じられている(「足利義詮御判御教書案」入江文書)。康暦元年(一三七九)一二月二四日には氏能から嫡子徳一丸(親貞)に譲与された山田郷原田次郎跡以下処々の地頭職が安堵されている(「足利義満下文」同文書)。前出の山階村のほか弥富名・粟野村・原田村・横尾新庄などが史料上確認される。郷内には玖珠城が築かれていた。
〔栗木名〕
現玖珠町山田の早水に比定される。豊後国弘安図田帳に「栗本名八町 新庄 肥前国御家人原田七郎種秀」、豊後国弘安田代注進状では粟来名とするが、いずれも栗木の誤記と考えられる。応永九年(一四〇二)四月二〇日の沙弥正言譲状案(長野末夫文書)では栗木村八町とあり、同所などを各々三分の一に分割して親治など三子に分与している。
山田郷
やまだごう
「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠く。本郷に関しては、東文書に四通の売券が残る(寛平八年二月二五日山城国山田郷長解、天暦七年八月一六日山城国山田郷長解、貞元三年一一月一三日山城国山田郷長解、寛仁三年一一月二〇日秦徳山畠売券)。このうち貞元三年(九七六)のものをあげれば、
<資料は省略されています>
のごとくであって、いずれの売券も秦氏がかかわっており、特にこの文書に登場する人名は売人・買人ほかほとんどが秦氏であって、その居住は密度が高い。
山田郷
やまだごう
近世の鹿児島藩の外城の一つ。始羅郡に所属し、同郡の中央北部に位置する。鹿児島城下より五里半の地にある(三州御治世要覧)。当地は奈良時代に鈴木三郎政氏の弟四郎政良が開いたという(姶良町郷土誌)。
戦国時代から山田の地名がみえる。年代記(旧記雑録)によると、天文二四年(一五五五)の平山城での合戦に際し、「四月二日ノ夜、帖佐・山田捨テ退」とみえる。長谷場越前自記(同書)には、同年一一月に島津方が蒲生方の松坂城(現蒲生町)を攻めた際の「帖佐之内に山田の地頭梅北宮内左衛門尉」の奮戦ぶりが記される。島津貴久譜(同書)に弘治元年(一五五五)三月八日のこととして「到帖佐之山田、設伏兵斬獲敵廿三人」、山本氏日記(同書)同年五月一三日条に「此日山田之足軽七人出シ」などと、戦場としての山田の記述が多くみられる。また同四年正月二〇日の島津氏老臣連署坪付(同書)に「帖佐郷之内山田之村寺師名」とみえる。以上のように、当時の山田は帖佐郷に含まれていた。
山田郷
やまだごう
現福光町北東部から現城端町西部の山田川西岸一帯に広がっていたとみられる。石黒庄の内で、弘長二年(一二六二)三月一日の関東下知状(尊経閣文庫所蔵文書)によれば、領家方は山田郷は元来弘瀬郷を含むと主張しており、そうだとすると小矢部川西岸まで含む大きな郷域を有していたことになる。本家は円宗寺(現京都市右京区)、領家は京都仁和寺菩提院。正治二年(一二〇〇)から建仁三年(一二〇三)までの間と推定される七月四日付源頼家請文案(仁和寺文書)に越中国山田郷とみえる。
弘長二年の関東下知状にみえる領家雑掌幸円の主張によれば、山田郷では何度も地頭職の設置と停廃が繰返されたという。元暦元年(一一八四)の木曾義仲滅亡後、源頼朝により北陸道一帯に地頭が設置された際、当郷には飯埜三郎康家が置かれたが、まもなく源頼朝によって停廃された。その後二代将軍源頼家の代には「新□四郎維憲」が地頭に任じられていたが、元久元年(一二〇四)仁和寺の申入れによって地頭職が停廃された。おそらく同年の比企の乱に際して維憲が比企方の越中守護太田朝季に荷担したことが影響したと考えられる。
山田郷
やまだごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠いているが、他の国郡に同名の郡郷が多くあり、「也万多」と訓ずる。「新撰姓氏録」に河内の諸蕃として記される漢人系の山田宿禰・山田連・山田造の本拠地であったとみられる。山田史も同族であり、学者を輩出していて著名である。郷の所在について「日本地理志料」は、「河内志」にしたがって現枚方市の田口に山田池があるので、この田口から片鉾・甲斐田・中宮・長尾・尊延寺・藤坂(現枚方市)などにまたがるとし、「大日本地名辞書」も同じく田口が含まれる山田および招提・牧野地区(現枚方市)と考えている。
山田郷
やまだごう
平佐川流域を占める薩摩郡の外城で、小之郷に位置付けられ(列朝制度)、鹿児島城下からの距離は一一里半(「薩藩政要録」など)。鹿児島藩直轄郷で、山田村一村で一郷を形成。地頭仮屋は初め永利城下の麓に置かれたが、のち南西部の馬場に移ったという。天正二年(一五七四)一二月六日本田薫親が島津氏から山田地頭役に任命されている(上井覚兼日記)。
山田郷
やまだごう
鹿児島藩の近世外城の一つ。河辺郡に所属して同郡の中央部東寄りに位置し、鹿児島城下から南西方九里の地にある(「三国名勝図会」など)。鹿児島藩直轄領で、所属村は上山田村・中山田村・下山田村。寛文一二年(一六七二)川辺郷と当郷との間に境界争論があり、川辺郷側の主張では山田郷は以前川辺郷のうちで、のち加世田郷に属したという(川辺町郷土史)。
山田郷
やまだごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」は川東村・大森田村・小塩江村(現須賀川市)をあげ、川東村の近世村名上小山田村・下小山田村を遺称地とする。「日本地理志料」も上小山田村・下小山田村を遺称地とし、現須賀川市東部の大栗・雨田・田中・日照田・市野関・小作田・小倉・堤・塩田・江持、現石川郡玉川村北部の竜崎・岩法寺をあげる。
山田郷
やまだごう
郷域は現佐賀郡大和町の東山田・西山田を中心に、背振山地の南の平地に東西に幅広く位置し、東は現川上川、西は小城郡境に及んでいたものと考えられる。
郷名は「肥前風土記」にはみえないが、風土記にいう佐嘉郡六ヵ郷の一と考えられる。「和名抄」に「山田」とあり、高山寺本は「ヤ
タ」、刊本は「也万多」とよむ。
「山田」の名は中世にも「山田東郷」「山田西郷」として残る。河上神社文書の安元二年(一一七六)六月日の河上宮現役所課神田坪付注文案・文保二年(一三一八)二月一〇日の河上宮免田坪々領主交名注文案によれば、山田東郷は条里では佐賀郡の一一条から一四条に及ぶ範囲で、「高市里・牧田里」(一一条)、「新居里・大楊里・荒墓里・癸野依里」(一三条)などを含んでいる。
山田郷
やまだごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠くが、各地の多くの同名郷で訓を付すものは「也万多」「夜末太」とする。
丹後国田数帳に、
<資料は省略されています>
とある。「下山殿」は一色下山を称し水戸谷口下山田城(跡地は現与謝郡野田川町)の城主である。「八幡宮」を四辻八幡宮(現八幡神社、野田川町)とする説がある。永禄七年(一五六四)五月の北野社領諸国所々目録(北野神社文書)に「丹後国与謝郡山田郷内景垣名」がある。
山田郷
やまだごう
「和名抄」に記載される高来郡四郷の一つ。同書の高山寺本・東急本・名博本・元和古活字本ともに「山田」とみえ、東急本・元和古活字本に也万多の訓が付されている。中世にみえる山田庄、近世の山田村が郷名を継承しており、現南高来郡吾妻町域に比定される。吾妻町より同郡瑞穂町に及ぶとする説(大日本地名辞書)のほか、西方の同郡愛野町・森山町とする見解などがある。
山田郷
やまたごう
「和名抄」高山寺本は下野国に載せ、東急本とともに訓を欠く。同書国郡に山田郡を「夜末太」と訓じている。旧川内村大字山田は桐生市に合併して消滅、わずかに渡良瀬川の支流に山田川があり、これを遺名とみる。旧川内村須永(現桐生市川内町三丁目付近)は中世の須永御厨の遺名であり、旧川内村西小倉の崇禅寺には、鎌倉時代の初め法然に帰依し念仏に精進したという智明坊(園田太郎成家)の墓と伝える墓塔や、鎌倉中期の作とみられる阿弥陀如来木像、ほかに康永三年(一三四四)銘の五輪塔、室町初期の石塔類がある。
山田郷
やまだごう
郷名は「肥前風土記」になく、「和名抄」に「山田」とみえるが、訓を欠く。山田の地名は現在はなく、また川上郷比定との関係もあって地域比定に定説がない。近世養父郡鳥栖村(現鳥栖市)鎮座の水影天神社の縁起に、近世曾根崎村(現鳥栖市)鎮座の老松神社を「其の隣村山田村に鎮座ある老松宮云々」としているところから、山田郷は近世の田代(現鳥栖市)の南の曾根崎付近まで及んでいたとも考えられる。
山田郷
やまだごう
現宇和町山田・西山田と西宇和郡三瓶町蔵貫にあった中近世の郷名。「宇和旧記」に「山田、前岩木組と云」と注され、古代の石城郷(和名抄)の内とも推察される。山田の熊野三所大権現の永禄一二年(一五六九)一一月付再興棟札(「宇和旧記」所載)中に「山田之内峡間村」があり、山田は郷名ともみられる。また郷内(現宇和町)の西林寺の天正四年(一五七六)一一月二二日付棟札(「宇和旧記」所載)に「伊予国宇和郡隈前郷紫金山西林禅寺」とあり、隈前郷という郷名もあったことが知られる。
山田郷
やまだごう
「和名抄」所載の郷で、訓を欠く。「大日本地名辞書」「日本地理志料」ともに近世の小山田村・上山田村・下山田村(現いわき市)を遺称地とする。「日本地理志料」は上山田・下山田・小山田・遠山田・遠野・大平・滝・松小屋・釜戸・井上・大林(現同上)をあげる。
山田郷
やまだごう
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「山田」と記し、訓を欠く。「日本地理志料」は「宇摩郡山田郷、管
妻鳥、川ノ江、余木、長須、下分、上分、山田井、柴生、半田、下川、下山、領家、上山、新宮、三角寺、馬立、新瀬川、金川ノ十七邑
」と記し、宇摩郡の東部、現在の川之江市と宇摩郡新宮村に比定する。
山田郷
やまだごう
「和名抄」東急本には「也万多」と訓を付す。中世に公領の山田郷がみえる。近世の山田上村・山田下村を遺称地とし、現綾歌郡綾上町の羽床地区を除いた地域と、綾南町千疋、仲多度郡琴南町川東を含む一帯に比定される。
山田郷
やまだごう
「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。古来所在地不明の郷である。「日本地理志料」では山田は小田の誤写であり、東加茂郡足助町南部の旧小田村の地とし、「大日本地名辞書」では不詳としながらも「盛岡村、穂積村などにや」として、足助町南部の巴川両岸にわたる地域を考えている。
山田郷
やまだごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「也万多と訓ムべし」とする。同書が引く「宗像八幡社」の「社記略」に「豊前国上毛郡山田郷横武荘四郎丸村鎮座宗像八幡社」とあり、この神社が現豊前市四郎丸に鎮座する大富神社(古くは宗像の神を祀っていた)に比定されること、同社が鎌倉時代からみえる宇佐宮弥勒寺領山田庄(現豊前市)の総社として崇拝されたことなどから、当郷は現四郎丸を中心とした地域に比定される。
山田郷
やまだごう
「和名抄」に「山田」と記され、訓を欠く。「常陸国風土記」久慈郡の項に「郡の北二里に山田の里あり。多く墾田と為れり。因りて名づく」と記され、「延喜式」(兵部省)に「山田駅」がみえる。
山田郷
やまだごう
「和名抄」所載の郷で、同書東急本・元和古活字本は夜万多の訓を付す。現千葉市緑区の板倉遺跡から出土の九世紀前半という土師器坏の墨書銘に「山田□」「山田側」とみえる。
山田郷
やまだごう
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書所載の他の山田郷の訓に「也万多」「也末太」などとあるので、同様に読んでおく。
山田郷
やまたごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本に「夜末太」、東急本・元和古活字本に「也万多」の訓がある。
山田郷
やまたごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。東急本に「也万多」の訓がある。
山田郷
やまだごう
「和名抄」東急本・元和古活字本では「也万多」と訓を付す。「大日本史」は狐禅寺村(現一関市)に山田の地があるとして、磐井郡の中央に位置した郷とする。
山田郷
やまだごう
「和名抄」所載の郷。同書高山寺本など諸本とも訓を欠くが、市原郡の同名郷に夜万多の訓があるので(東急本)、ヤマタであろう。
山田郷
やまだごう
奈良時代にみえる郷。年月未詳の仕丁送文(正倉院文書)に秦人足嶋が「播磨国賀茂郡山田郷」戸主秦人水間の戸口としてみえる。「播磨国風土記」に山田里があり、人が皆山の際にいるのでこの名が生じたとある。
山田郷
やまだごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも山田と記し、東急本・元和古活字本は「也末太」の訓を付す。
山田郷
やまだごう
「和名抄」高山寺本・名博本にみえるが、ともに訓を欠く。「和名抄」の筑前国宗像郡山田郷の訓により「やまだ」と読む。
山田郷
やまだごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「也万多」から「やまだ」と読む。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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