日本歴史地名大系 「山田郷」の解説
山田郷
やまだごう
- 大分県:玖珠郡
- 山田郷
〔栗木名〕
現玖珠町山田の
山田郷
やまだごう
「和名抄」高山寺本・刊本とも訓を欠く。本郷に関しては、東文書に四通の売券が残る(寛平八年二月二五日山城国山田郷長解、天暦七年八月一六日山城国山田郷長解、貞元三年一一月一三日山城国山田郷長解、寛仁三年一一月二〇日秦徳山畠売券)。このうち貞元三年(九七六)のものをあげれば、
のごとくであって、いずれの売券も秦氏がかかわっており、特にこの文書に登場する人名は売人・買人ほかほとんどが秦氏であって、その居住は密度が高い。
山田郷
やまだごう
近世の鹿児島藩の外城の一つ。
戦国時代から山田の地名がみえる。年代記(旧記雑録)によると、天文二四年(一五五五)の
山田郷
やまだごう
現福光町北東部から現
弘長二年の関東下知状にみえる領家雑掌幸円の主張によれば、山田郷では何度も地頭職の設置と停廃が繰返されたという。元暦元年(一一八四)の木曾義仲滅亡後、源頼朝により北陸道一帯に地頭が設置された際、当郷には飯埜三郎康家が置かれたが、まもなく源頼朝によって停廃された。その後二代将軍源頼家の代には「新□四郎維憲」が地頭に任じられていたが、元久元年(一二〇四)仁和寺の申入れによって地頭職が停廃された。おそらく同年の比企の乱に際して維憲が比企方の越中守護太田朝季に荷担したことが影響したと考えられる。
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
郷域は現佐賀郡
郷名は「肥前風土記」にはみえないが、風土記にいう
「山田」の名は中世にも「山田東郷」「山田西郷」として残る。河上神社文書の安元二年(一一七六)六月日の河上宮現役所課神田坪付注文案・文保二年(一三一八)二月一〇日の河上宮免田坪々領主交名注文案によれば、山田東郷は条里では佐賀郡の一一条から一四条に及ぶ範囲で、「高市里・牧田里」(一一条)、「新居里・大楊里・荒墓里・癸野依里」(一三条)などを含んでいる。
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまたごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
山田郷
やまだごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報