山越村(読み)やまごえむら

日本歴史地名大系 「山越村」の解説

山越村
やまごえむら

[現在地名]松山市山越町やまごえまち・山越一―四丁目・御幸みゆき一―二丁目・本町ほんまち七丁目・問屋といや

松山平野の北部に位置する農村。村内の西部は平坦であるが、東北部は丘陵を負っている。東は祝谷いわいだに村、西は衣山きぬやま村、南は城下町、北は姫原ひめばら村に接する。国鉄予讃本線が開通するまで、城下町から今治いまばり(現在の国道一九六号)へ向かう交通の要衝で、北の出入口となっていた。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)和気わけ郡の項に「山越村 林山有」とある。


山越村
やまこしむら

[現在地名]田沼町山越

下多田しもただ村の西にあり、北部は山、西は田沼村、南は栃本とちもと村。慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に「野州佐野庄山越郷」とみえ、当地の密蔵みつぞう院が署名している。

慶安郷帳によれば田五一石余・畑二〇八石余・山銭一五石余、下総古河藩領。輪王寺本では高三八五石余。元禄一一年(一六九八)から旗本鵜殿・大久保の二給となり幕末に至る。元和三年(一六一七)当時の本百姓一七・門屋百姓五(「日光御用割付」野城勝文書)。寛文四年(一六六四)の田方、翌五年の畑方検地帳(津布久平八郎文書)によると、田一四町三反余、うち上田七町二反余・中田四町余・下田二町六反余・下々田三反余、畑二九町八反余、うち上畑八町二反余・中畑九町四反余・下畑九町四反余・下々畑三反余、屋敷二町三反余で、畑方が約七割を占める。


山越村
やまこしむら

[現在地名]右京区山越〈いぬい町・たつみ町・なか町・西にし町・ひがし町〉・音戸山頂上おんどやまちようじよう

北は音戸山おんどやま麓、西は広沢ひろさわ池、南は中野なかの村、東は鳴滝なるたき村に接する。

古代平安朝に、禁裏から嵯峨さがに通ずる千代ちよ古道ふるみちとよばれた街道筋にあたり、平安の貴紳が往来した地と考えられる。

享保一四年(一七二九)山城国高八郡村名帳や天保郷帳などに村名はないが、寛政六年(一七九四)一一月一六日付の山越村林名前帳(井上家文書)が残り、この頃には村となっていたようである。嘉永元年(一八四八)山越村水帳(佐野藤右衛門家文書)には「御室御所御領」と記される。同水帳によると、畑九ヵ所、段別九町九段八畝一九歩、分米五一石四斗二升、山五ヵ所、分米一五石三升六合、平林三ヵ所、段別一町六段七畝歩、分米六石六斗八升で、御蔵入二七石一斗七升五合余となっている。


山越村
やまごしむら

[現在地名]板倉町山越

東は米増よねます村、西は北条きたじよう(現新井市)、北は吉増よします村に接する。正保国絵図に村名がみえ、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に山腰村とあり、高三五二石五斗余。天和三年(一六八三)の検地帳(丸山文書)によれば高二三四石余、うち山高二石七斗・漆高一斗三升、田一五町五反余・畑一町九反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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