日本歴史地名大系 「山越村」の解説
山越村
やまごえむら
山越村
やまこしむら
慶安郷帳によれば田五一石余・畑二〇八石余・山銭一五石余、下総古河藩領。輪王寺本では高三八五石余。元禄一一年(一六九八)から旗本鵜殿・大久保の二給となり幕末に至る。元和三年(一六一七)当時の本百姓一七・門屋百姓五(「日光御用割付」野城勝文書)。寛文四年(一六六四)の田方、翌五年の畑方検地帳(津布久平八郎文書)によると、田一四町三反余、うち上田七町二反余・中田四町余・下田二町六反余・下々田三反余、畑二九町八反余、うち上畑八町二反余・中畑九町四反余・下畑九町四反余・下々畑三反余、屋敷二町三反余で、畑方が約七割を占める。
山越村
やまこしむら
- 京都市:右京区
- 山越村
北は
古代平安朝に、禁裏から
享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳や天保郷帳などに村名はないが、寛政六年(一七九四)一一月一六日付の山越村林名前帳(井上家文書)が残り、この頃には村となっていたようである。嘉永元年(一八四八)山越村水帳(佐野藤右衛門家文書)には「御室御所御領」と記される。同水帳によると、畑九ヵ所、段別九町九段八畝一九歩、分米五一石四斗二升、山五ヵ所、分米一五石三升六合、平林三ヵ所、段別一町六段七畝歩、分米六石六斗八升で、御蔵入二七石一斗七升五合余となっている。
山越村
やまごしむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報