精選版 日本国語大辞典 「絹織物」の意味・読み・例文・類語
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絹糸、あるいは玉糸(繭のなかに2匹以上のカイコが入ったものから糸を引いたもの)、柞蚕(さくさん)・天蚕(てんさん)・エリ蚕などの野蚕糸、紡ぎ糸・絹紡糸など紡績した糸を使って織物としたものの総称。これを大別すると、生糸をそのまま使い織り上げてから精練漂白する生絹(きぎぬ)織物(または単に生絹・生(き)織物・後染めともいう)と、生糸を糸のまま精練漂白したのち製織する練絹(ねりぎぬ)織物(または単に練織物・先練ともいう)とに分けられる。絹を練るのは、生糸のままでは、繊維の表面に膠質(こうしつ)のセリシンが付着して平滑でなく、光沢がないので、これを除去し、絹本来の手ざわりが滑らかで、光沢のあるフィブロインを露出させる必要がある。したがって、製織する前と後のいずれかで精練漂白し除去することは、織物自体の性質を変えてしまうことになる。
絹織物は、糸質、糸の撚(よ)り、織物組織、産地事情などにより、しわのある織物、光沢のある織物、地薄の透いてみえる織物など、多種類にわたる織物が生まれるが、代表的織物には、錦(にしき)・綾(あや)・羅(ら)・唐織(からおり)・繻子(しゅす)・緞子(どんす)・金銀襴(らん)・羽二重(はぶたえ)・縮緬(ちりめん)・綸子(りんず)・お召・銘仙・大島などの伝統的織物や和服地、綴錦(つづれにしき)・博多織(はかたおり)などの帯地、ブロケード、タフタなど広幅に織り出した洋服地などがある。
絹の製織には、絹の性能が問題になるが、伸展率が大きいので、織機の織前(おりまえ)を長くしなければならず、一間機(いっけんばた)とよばれるように高機(たかばた)にあっても、非常に長い機を使用する必要があった。とくに江戸時代には、絹の着用が制限されたので、一般には西陣に生産が集中し、地方では国産奨励のため各藩でつくられたくらいで、そのため織機も使用範囲が狭い。近代的鉄製絹織機の国産化は、津田米次郎(よねじろう)が北陸の機業場建設の過程において、絹用力織機の改良に努め、ようやく1902年(明治35)に金沢商業会議所会頭水登勇次郎の協力を得て、津田式動力織機の実用化に成功し、輸出羽二重の生産に寄与することになった。また1898年(明治31)には、山形県鶴岡(つるおか)の斎藤外市により斎外(さいと)式力織機が発明され、金沢市において吉田良作が製作販売するや、能率的で津田式より安価であることから、高い普及度をもつことになった。これらの力織機製作に刺激され、模倣と一部の改善により大西・川崎・吉岡・岡・清水・表などの各式の力織機が製作された。
絹織物の寸法は、綿織物と同じく広幅と小幅物がある。輸出向けはすべて広幅で、91.4センチメートル(36インチ)幅のものが多く、内地向けは帯地などの場合を除いて一般に小幅で、着尺地は産地事情により幾分異なるが、約36センチメートル(鯨尺9寸5分)を標準としている。また長さでは、輸出向けは1反(一般的には50ヤード、約45.7メートル、品種により30ヤード)で、内地向けは1反(鯨尺3丈、約11.4メートル)、または1匹(約22.8メートル)を単位としている。絹織物の厚薄を表すときに、匁付(もんめづけ)(あるいは目付ともいう)が使われるが、これは精練したのちも幅1寸、長さ60尺の重量を匁(1匁=3.75グラム)で示し、たとえば4匁であれば四匁付という。
絹の性能は、全般的にあらゆる繊維のうちでいちばん上品で温雅な光沢があり、古くから高級織物に用いられてきた。長所としては、非常に繊維が細くて長く、しかも強いので、地薄な羅や紗(しゃ)などの織物から組織の緻密(ちみつ)な織物まで、たやすく織ることができ、熱の伝導率が低いため保温性に富んでいることである。そのうえ、染色は容易であり、明るい色相に染めることができる。短所としては、日光によって脆化(ぜいか)しやすく、長く貯蔵しておくとき褐変することである。またアルカリ性に弱く、溶解するため、染色のときや洗濯には注意を要する。しかし、この欠点も樹脂加工などの処理法によって改善されつつある。
絹の生産地は、伝統的な京都市の西陣(にしじん)一帯や九州の博多などがあるが、一般的には、生絹織物と練絹織物により生産地域が大きく分かれている。これは、地域により、養蚕による原料供給、自然条件としての水質・水利・年間温湿度差の大小が、織物生産に大きく影響を与えているのである。生絹織物は、日本海に面する北陸から東北地方にかけての多湿地帯で織られ、福井県・石川県などの羽二重・縮緬・塩瀬で代表され、練絹織物には、銘仙・甲斐(かい)絹・タフタ・お召などがあり、関東平野の山裾(やますそ)一帯に広がる結城(ゆうき)・足利(あしかが)・桐生(きりゅう)・伊勢崎(いせさき)・秩父(ちちぶ)・八王子などで生産されている。ほかの地方でも、近世中期以後に伝えられた織物技術を受け継いで特徴ある織物を生産している。
絹織物の歴史は、新石器時代に入って中国で発生をみた。養蚕・製糸とともに、製織技術は、すでに殷(いん)代に高度の段階に達し、紋織物さえも織られている。これが漢代になると、経糸(たていと)を使って模様を表す経錦(たてにしき/けいきん)が製織されるに至り、古代中国の絹織技術は最高に達した。製品は、シルク・ロードと海路を通して西方世界に運ばれ、西方世界・ローマ帝国において、その品質は賞賛され、金貨と同じ重量で取引されたといわれる。しかし中国の国産保護のため、西方へ蚕種の伝わったのは比較的遅く、6世紀中ごろで、やがて中近東から地中海世界にかけて絹生産が開始されるに至った。その中心はペルシアであり、とくにササン朝ペルシアの時代には、絹織物の生産が盛んになり、その流れは、今度は反対にシルク・ロードを通って中国にもたらされ、そして日本に達し、飛鳥(あすか)・奈良時代の錦綾(にしきあや/きんき)を飾った。地中海世界においては、ローマ帝国にもたらされた絹織物はみごとに消化され、イタリア、スペイン、そして南フランスにまで生産が拡大されることになる。中世の絹織物の実体は、キリスト聖者の聖骸布(せいがいふ)にみることができる。そしてフランスのリヨンはコルベールの保護奨励によって非常に栄え、近世のヨーロッパにおける伝統美の世界を築き上げた。
日本へは弥生(やよい)式時代の前期に北部九州へもたらされた絹断片が、鉄製品に残存して出土し、すでにこのころには中国、朝鮮半島より伝来しており、一部に絹織物の生産が行われたものとみられる。そして古墳時代に入ると、さらに出土は増加の一途をたどり、中期から経錦、後期から綾の出土がみられ、高級織物の生産が盛んとなり、衣料・桂甲(けいこう)に使用された。飛鳥・奈良時代には、税制の調(ちょう)として、おもに西日本で生産された。錦・綾・羅は当時の代表的高級織物であり、絹・絁(あしぎぬ)が一般的な絹織物であるが、これらは律令(りつりょう)制下に国家が強力的に推し進めた生産であるため、やがて古代末期には衰退するに至り、織部司(おりべのつかさ)や地方国衙(こくが)生産においてわずかに命脈を保ったにすぎない。中世にはわずかではあるが、宋(そう)の織物が輸入され、また国内生産も古代の伝統を引き継いで、阿波(あわ)絹・美濃(みの)八丈・常陸(ひたち)絹・紀伊かとり・石見紬(いわみつむぎ)などの特産品も生まれた。中世末から近世初頭にかけて生産の転換期を迎え、中国(明(みん))から新しい織物技術が伝来し、綸子・唐織・緞子などが国産化された。とくに絹の撚糸(ねんし)法が伝わり、縮緬という皺(しぼ)のある織物がつくられ、京都縮緬を生んでから、各地へ伝わり、丹後(たんご)縮緬・岐阜縮緬・長浜縮緬などの地場産業を生むこととなった。とくに高級織物の生産は西陣が中心で、各地の織物はその補助的な役割を果たすにすぎなかったが、需要の増大とともに西陣だけではまかないきれず、近世中期以後は、西陣から技術者を招聘(しょうへい)したり、藩主が国産奨励のため、技術を導入するなど、各地へ伝播(でんぱ)していき、特産品をつくっていった。
明治時代になると、西欧機械技術の導入により、ジャカード、バッタン装置などが取り入れられ、また近代的な富岡製糸所・築地(つきじ)製糸場などによって、機械製糸が良質の生糸を供給したが、それによって輸出・内需ともに需要をおこす誘因ともなり、第二次世界大戦に至るまで生産額は上昇の一途をたどった。とくに広幅輸出羽二重が盛んに生産され、第二次世界大戦直前には年産額約6億4000万平方ヤードに達した。しかし19世紀末にはレーヨンが発明され、人絹(人造絹糸)とよばれて、絹に比べて安価なことから、しだいに絹の分野を蚕食し、また戦前から開発されていたナイロン生産は、戦後、絹にとってかわって進出し、絹生産を圧迫することになった。とくに婦人用靴下の分野では、まったく絹を駆逐することになった。この傾向はもとの状態へ復帰しないようにみられたが、戦後における生活水準の向上は、絹織物独特の華麗な風合いが再認識され、さらに和服への懐古趣味は一つのブームを生み、高級織物としての地位を回復する結果となった。戦後の養蚕は、将来の見通しが十分でなかったので、クワの作付面積の縮小転換が図られ、生糸生産高は減少し、漸増する生糸需要量をまかなうことができず、1967年(昭和42)ついに生産輸出国から輸入国に転落した。このような消費傾向を反映して、絹の光沢と風合いをもつ合成繊維が生まれ、着物の分野に合成絹として進出している。
絹織物の品質については、日本工業規格(L)のなかに定められており、絹織物試験法に規定されている。絹の取扱い方法で注意を要するのは、絹自体の性質をよく知っておくことである。洗濯では、低温で中性せっけんを使って洗い、冷水でよくすすぐ。せっけん分が残ると生地に絡み、光沢、手ざわりが悪くなり、黄褐変を呈する。紫外線に侵されやすいため、日陰干しにする。絹には増量剤として第一塩化スズを施したものがあるが、これは湿気をよく吸収し、さらに外気の温度の上昇につれて、いわゆるむれを生じ、質をもろくすることがある。しかしながら加工技術の進歩から、樹脂加工によって、絹の欠点である黄褐変防止や、耐摩耗性、染色堅牢(けんろう)度などの向上が図られ、従来の取扱いにくさからの改善がなされつつある。
[角山幸洋]
『角山幸洋著『日本染織発達史』(1967・田畑書店)』▽『京都造形芸術大学編『織を学ぶ』(1999・角川書店)』▽『山脇悌二郎著『事典絹と木綿の江戸時代』(2002・吉川弘文館)』
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…後者は,オスマン・トルコの代表的なタイプであるが,16世紀後半には,深紅色,緋色を呈色とする,いわゆる〈アルメニアの赤土〉の使用によって,いっそう華やかさを加えた。【杉村 棟】
[染織]
質・量を誇るイスラム工芸のなかでも染織は主要な分野をなし,特に絹織物とじゅうたんがめざましい発展を遂げた。中国から伝わった絹織物は,ササン朝以降オリエント世界で開花し,イスラム世界の拡大とともにヨーロッパに伝播し,ロマネスク文様の源泉の一つとなるなど,美術の東西交流史上重要な役割を果たした。…
…中国では1958年に浙江省呉興銭山漾の新石器時代遺跡第4層内の竹筐(ちくきよう)の中から,平織の小裂(こぎれ)や撚糸,組帯が発見されている。その素材は家蚕の絹糸とされているが,この地層から併出した稲もみの放射性炭素による時代判定では紀元前2750±100年となっており,この時点で中国では養蚕がなされ,絹織物を製織していたことになる。こうしたデータから,織物の存在は少なくとも新石器時代まではさかのぼりうるが,織物の発生はそれをはるかにさかのぼると考えられる。…
…中世の各種衣料のうち,とくに絹織物の特権的な取引を行っていた商人集団。すでに鎌倉末期の1303年(嘉元1)に石清水八幡宮の門前町に,室町時代には下総の香取神宮の門前に,戦国時代には越前北ノ庄の豪商橘屋に所属する軽物座等の存在をあとづけうる。…
…織物の製造に従事する職人。用いる材料によって,また織り方によって職種や職人のあり方は歴史的地域的に多様であり,〈織物〉〈絹織物〉〈毛織物〉〈綿織物〉などの項目も参照されたい。また日本の古代・中世の高級織物の織成に従事した〈織手(おりて)〉については別に独立項目がある。…
…綿布の生産者は都市の専業機戸と副業農家の2種類があり,前者はどちらかといえば高級品を中心とし,後者は普通品を生産したが,多数の零細農家がこれによって重税あるいは重い小作料負担に堪えて生活を維持した(綿織物)。同じ事情で江南デルタ地帯(揚子江デルタ地帯)では,綿布以外にも副業生産が行われたが,特に蘇州府下では絹織物生産が目だっている。絹織物の高級品は,政府工場の置かれた南京,蘇州,杭州などの大都市で生産されたが,農家の副業としては最も工程の簡単な紬が生産された。…
※「絹織物」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
大阪府中部,大阪市の中央部にある運河。東横堀川から中央区の南部を東西に流れて木津川にいたる。全長約 2.5km。慶長17(1612)年河内国久宝寺村の安井道頓が着工,道頓の死後は従弟の安井道卜(どうぼ...
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