絹織物(読み)きぬおりもの

精選版 日本国語大辞典 「絹織物」の意味・読み・例文・類語

きぬ‐おりもの【絹織物】

※世帯(1928)〈谷川長八・竹内直子〉「文化洗濯法〈略〉一号石鹸 白の絹織物」

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デジタル大辞泉 「絹織物」の意味・読み・例文・類語

きぬ‐おりもの【絹織物】

絹糸で織った織物。羽二重縮緬ちりめん透綾すきやつむぎなど。

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改訂新版 世界大百科事典 「絹織物」の意味・わかりやすい解説

絹織物 (きぬおりもの)

経糸(たていと),緯糸(よこいと)/(ぬきいと)に絹糸を用いて織りあげた織物の総称。中国で創出されたもので,高価な貴重品として,古来シルクロードの主要な交易品目に数えられ,古代ローマでは同じ目方の金と取引された。その製法は長い間秘密とされ,蚕を中国の国外に持ち出したものは死刑に処せられたという。絹糸には養殖蚕の家蚕糸(かさんし),野蚕の柞蚕糸(さくさんし)や天蚕糸(てんさんし),さらに紡績絹糸や紬糸(つむぎいと)などがあり,それぞれに特色のある絹織物をつくる。
生糸 → →養蚕

光沢に富み,軽くしなやかで染色性に優れ,幅広い染織美の表現を可能とする。強度,耐摩擦などの点では他の天然繊維に劣らないが,アルカリおよび日光に弱く,毛や綿織物に比べ多少保温性に欠ける。一般に絹織物は,織物としてから精練・染色する〈生(き)織物〉と,糸の状態で精練・染色して織物とする〈練(ねり)織物〉とに大別される。すなわち〈生織物〉は後練(あとねり),後染(あとぞめ)の織物で,白糸のまま織りあげ,あとから必要に応じて染色加工を施すものをいう。羽二重(はぶたえ),塩瀬(しおぜ),縮緬(ちりめん),綸子(りんず)などがこれに属する。〈練織物〉は先染(さきぞめ),先練(さきねり)の織物で,無地織,縞,格子,絣,各種紋織物など製織の過程で色や柄が織り出されるものをいう。甲斐絹(海気)(かいき),琥珀(こはく),博多織,仙台平(せんだいひら),御召,銘仙,緞子(どんす),絹ビロード,錦などがその代表的なものである。

蚕を飼って絹糸をとり織物にすることは,中国で創始され,その歴史はきわめて古い。山西省南東部の夏県西陰村の彩陶遺跡から出土した半個の繭殻と紡錘車や,江蘇省呉江県梅椻鎮北東の袁家埭遺址から出土した黒陶にみられる蚕の文様などから,今日では新石器時代における絹の生産が推定されている。紀元前1300年ころの殷代の甲骨文には〈桑・蚕・糸・帛〉などをあらわす文字が認められ,また当代の青銅製鉞(えつ)に付着した絹片によって,平絹や平織地に浮糸で文様をあらわした紋綺の存在が知られる。戦国時代の絹織物は,湖南省長沙,湖北省江陵,アルタイ東部のパジリクなどから平絹,綺,帛画(描絵),錦,刺繡などが発見されている。とくに江陵馬磚1号墓の絹衾(絹のふとん)は,金色の繡糸を用いて鎖繡(くさりぬい)で竜鳳文をあらわした見事なものである。

 漢代は古代絹織物の成熟期にあたる。20世紀における中国周辺の考古学的調査,なかでも中央アジアの楼蘭,外モンゴルのノイン・ウラ,敦煌,朝鮮楽浪などの調査で多くの絹織物の遺品が報告されてきたが,1972年に湖南省長沙馬王堆前漢墓から出土した多種の絹帛類は,当代の染織技術の成熟を十二分に伝えるものである。また中国周辺にとどまらず,旧ソ連邦オグラクティ,キルギス共和国ダラス郡ドーロのケンコル,シリアのパルミュラなどから発見された漢代の絹織物は,東西交渉史のうえにも貴重な足跡を残している。出土遺品から当代の絹織物の種類をみると,粗密・厚薄のさまざまな平絹,後世の綾の祖型ともいうべき平織地に浮糸で文様を織り出した単色の紋織物である,複雑な綟り(もじり)組織の,経糸に多色の彩糸を用いて文様を織り出した経錦,輪奈(わな)織に似た起毛錦,鎖繡を主体とした刺繡,さらに彩絵(描絵)や印花(摺絵)などの加飾技法も行われている。文様は前代からあった祭服の十二章(日,月,星辰,山,竜,華虫,作会,宗彝,藻,火,粉米,黼黻)をはじめ,さまざまな動物文,植物文,幾何学文が用いられているが,いずれも象徴的に図様化され,特に錦文や繡文には霊気を感じさせるような力強さがある。また吉祥文字が多く配されているのも漢代のの特徴である。これらの文様は中国の染織文様における最も根幹的な要素として,ながくその文様史のなかに現れ展開された。

 3世紀から6世紀にわたるいわゆる六朝代は,織のうえには大きな変化はなく,漢様式が踏襲されているが,文様形式や色調には変化がみられる。遺品としては中央アジアのアスターナ出土のものがあるが,経錦では地の縞状の色調がより鮮やかな対比をみせ,文様は整然とした秩序のもとに単純化され,漢代の動物文や雲気文にあった強いリズム感は失われてくる。一方,四葉文,ハート形,アーチ形,立木形など西方のものと思われる新しい要素が綾や錦の文様に加えられている。染の方では無地染から文様染にすすみ,絞(しぼり),﨟纈(ろうけち)などが現れている。唐代の絹織物は,従来の伝統のうえに外来の諸要素を加味し,技術の革新,文様素材の豊富化,色彩の多様化があいまって,中国絹織物史上に一つの高峰を形成した。この期のものは,敦煌,アスターナ,吐谷(とよく),タリム砂漠などの出土品とともに,日本に舶載されて伝世した正倉院の染織品,法隆寺裂(ぎれ)の一部など,特に豊富な資料が存している。これらの絹織物を概観すると,技術上は漢代の伝統のうえにさらに精巧さが加えられている。綴織,二重織,綾地の綾,羅,また﨟纈,(きようけち),纐纈(こうけち)などの模様染の発達とともに,錦では従来の経錦にかわる緯錦の盛行が特筆される。さらに錦や綾にもみられるように,平織地を主とした前代までの織技が,綾地を主調としたものに移行することによって,斜紋組織による斜めや曲線の構成に対する自由さが,円文や襷(たすき),菱文構成の多様な文様を生み出している。

 宋代になると,中国の絹織物も貴族中心から庶民,とくに都市民を対象とするものに変わり,その生産地もいっそう広くなっていった。織金(金襴),緞子の創始はこのころからと考えられている。また前代の綴織の技術を発展させ,絵画的な表現効果を可能にした緯糸や,平繡(ひらぬい)を主体とした繊細巧緻な刺繡技術が発達したのも,この時代からである。元代にはふたたび東西の交通が頻繁となり,南海との交渉も活発化し,縞木綿の輸入に刺激されて絹の縞物なども盛んに製織されるようになった。明・清時代は前代にはじまった織金(金襴),緞子,錦,刻糸(綴),刺繡などの技術を継承し,より幅広く発展させていった。各地に置かれた織染局では官用の高級織物がつくられ,なかでも南京より産出される織金と,蘇州より産出される宋式の錦は,その技術の精巧さと織物の華麗さによってとくに名高かったという。文様は,宮廷を中心としたものには中国の伝統的な竜,獅子,鳳凰などの霊獣,霊鳥を用いたものが多いが,明代末から清代にかけては蝙蝠(こうもり),四君子,童子,瑞雲,宝尽しなどの〈吉祥文様〉が著しく多くみられるようになる。
執筆者:

絹織物の産地は漢代にはかなり広い範囲にわたり,とくに山東,河南,河北地方が中心で,後漢のころから四川が錦の産地として知られるようになる。唐代は《大唐之典》《元和郡県図志》《新唐書》地理志などに貢賦を負担する州郡が見え,それらによると河南・河北道が上位を占め,江南・剣南道が次いでいる。ただし開元年間(713-741)以後,とくに江南道で錦,綾,羅など高級品の生産が盛んになっていく。宋代には《宋会要輯稿》に各路ごとの租税,上供の絹織物の数量が見える。租税は,羅(ら),綾,絁(あしぎぬ)を負担する路は限られているが,絹,紬は多くの路で負担し,絹,紬とも両浙路,江南東路が上位を占めている。上供は錦,綺,鹿胎,透背,羅,綾,絁,紗などを負担する路は限られているが,絹,紬は多くの路で負担し,絹,紬とも両浙路,江南東路の数量が多い。つまり長江(揚子江)流域の絹織物生産が黄河流域を凌駕するに至ったことを示している。明代も浙江,江蘇が盛んで,とりわけ杭州府,蘇州府が有名である。ただ北の山西潞安府,西の四川も絹織物の産地として知られている。清代も浙江,江蘇が引き続き優位を占め,河北,山東,山西の絹織物業が衰えていく。華北の絹織物業がしだいに衰えていった原因として,宋代に異民族が華北に侵入した結果,桑,柘が破壊をうけたこと,北方より南方が植桑に適し,また水質も良いこと,とくに明以降は北方に綿織物業が普及していくこと,などがあげられている。

 絹織物の生産形態を見ると,古くは官営工業,農村副業が主であったが,漢代になると独立手工業者も現れる。こうした三つの形態はその後も変りないが,唐・宋時代をへて明・清時代になると商品生産がすすみ,規模もしだいに大きくなる。清代の官営絹織物工場の代表的なものは江寧,杭州,蘇州に設けられた糸織局である。乾隆初年にはこうした官営織物工場には織機が600台以上あり,その種類も各種のものがあったこと,また1官営織物工場に2000人近い職人がおり,紡績,機織,染色,刺繡などの専門に分かれていたこと,こうした職人は民間の機織の家から雇い入れるのが多かったことが,《大清会典事例》に見える。ただし官営絹織物工業の目的はおもに宮廷の需要をみたすことにあった。これに対して農村副業や独立手工業の場合は商品生産に重点がおかれ,その生産量も増加する。農村副業では専業化する地域も発生するし,また独立手工業では大きな経営規模のものも現れる。後者では多くはわずかな織機をもつ機坊(機屋)であるが,清末の浙江,江蘇には次のような形態のも見られる。すなわち,賑房(元機屋)が生糸を買い入れ,料坊(撚屋),染坊(染屋),槌糸匠(糸を打ちつやを出す者),絡糸匠(糸を枠に繰り移す者)などにまわし,必要な作業を行わせ,そのあと糸を機坊に貸して機織を行わせる。機坊は織機を賑房から借りる場合も多く,織工には日雇,年期雇,徒弟見習などがあった。こうしてやがて,清末から民国にかけて杭州,湖州,蘇州,漢口などに織機10台以上をもつ綢厰,つまり工場も現れるようになる。

 絹織物は中国の代表的な特産品として古く漢代以前から,いわゆるシルクロードや海路を通じて国外に輸出された。唐・宋時代以降は海上貿易がとくに盛んになり,広州,杭州,泉州に市舶司あるいは市舶務がおかれ,貿易事務を取り扱った。これらの港にインド人,アラビア人,その他南方諸国の人たちが渡来して交易を行ったが,中国からの輸出品の代表は絹織物,陶器などであった。明・清時代になると西洋人とくにポルトガル人,スペイン人,オランダ人が中国貿易に従事するが,中国からの主要輸出品はやはり絹織物,陶磁器であった。しかし清代康熙年間(1662-1722)以後,イギリスの中国貿易が盛んになると絹織物にかわって茶の輸出が激増し,やがて日本,西欧の絹織物業が発達し,輸出額がしだいに減少することになった。
執筆者:

古代ローマで中国を呼ぶのにセリカSerica(絹の国)の名が当てられたように,中国の絹織物は重要な交易品として,古く漢代以前からシルクロードの陸路を経て,また南海の海路によって遠く国外に輸出された。アルタイ東部のパジリクから出土した戦国時代の絹の刺繡や,シリアのパルミュラ出土の漢代錦,そしてシルクロードの各地点から出土した漢~唐代の多量の絹織物は,その経緯を伝えるものである。しかし中国では製品としての絹織物は輸出しても,蚕種の国外への輸出はかたく禁じていた。そのため,1本の長さが数百mに及ぶ美しく光る繊維によって織りあげられた軽やかな絹織物は,西方世界にとってながく神秘的な存在であった。そこに蚕種の西漸にまつわるいくつかのエピソードが生まれ,今日に伝えられているが,中央アジアのタリム砂漠の南路に沿うダンダン・ウィリクから発見された有名な板絵には,柵外へ嫁ぐ王女が繭を帽子の中に隠してこの地に伝えたという伝説が描かれている。またヨーロッパの絹織物業の発達は,6世紀の中ごろ,2人の景教僧が蚕卵を杖の頭に隠して持ち帰り,時のビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世に献上したことから始まると伝えられている。しかし現実には,養蚕術の西伝には,どうしても桑の栽培が付随しなければならない。この意味で,1901年スタインによってホータンの東方260kmのニヤ遺跡で発見されたいくつかの桑園の跡は,養蚕の西漸を実証する重要な手がかりを与えている。したがって今日では一般にニヤが滅んだ3世紀以前,おそらく2世紀前後にはこの地に中国風の養蚕術が伝えられ,ホータンはその中心であったと推定されており,その後《于闐国史》などの記録から,養蚕術は3世紀には北西インドまたはカシミール地方に伝わり,4~5世紀にはペルシアからシリアに伝播したと考えられている。これがビザンティン帝国に伝播したのは,6世紀中葉ということであろう。このころにはペルシア,シリアでは技術的にも優れた絹織物を産出するまでに成長し,やがて当地で製織された雄大な連珠文様や狩猟文様の錦は,6世紀後半から7世紀にかけての中国絹織物にも大きな影響を与えるようになった。

 7世紀後半におけるペルシア,メソポタミア,シリアを包括するイスラム世界の成立は,その勢力の拡大とともに絹織物をエジプトのコプト染織(コプト美術)のなかに,また地中海の西端スペインの地方へと浸透させていった。今日伝えられるコプトの染織品のなかにみられるイスラム文字,花唐草文様を織り出した繊細な絹綴(きぬつづれ),12世紀ころシリア地方でおこった新しい繻子(しゆす)地のダマスコもイスラム文化圏の所産である。
執筆者:

西ヨーロッパで早くから絹織物工業の発達をみたのはイタリアである。12世紀にはまずルッカにおいて栄えたが,15世紀にはジェノバやベネチア,16世紀にはフィレンツェへ中心が移り,このころ豪奢な紋織の生産では他の諸国を圧していた。しかしその後は政治的支配の交替などの影響下に絹織業は盛衰を重ね,ナポレオンによる大陸封鎖時にほぼ壊滅状態に陥った。その蘇生は1861年のイタリア王国成立後に活発化し,豊富な原料の供給や安価な労働力の存在に支えられて,ロンバルディア地方を中心に隆盛に向かい,19世紀末にはコモ地域が絹織物生産の中核となった。

 フランスの絹織業は13世紀以降パリ,ルーアン,とくに教皇の町アビニョンなどで営まれたが,中世における絹製品はおもに小間物であった。後に〈絹の都〉とよばれるにいたったリヨンでの絹織物工業の発祥は,1466年のルイ11世によるイタリア人絹職人の同市への招致にあったが,本格的な発展の開始は1536年にフランソア1世によって原料絹,絹織物の専売権が付与されたときからである。17世紀初頭における新型の空引機(そらひきばた)=高機(イタリア人のダンゴンの発明)の獲得を機に,J.B.コルベールによる手厚い保護も加わって,リヨン機業の目覚ましい繁栄が始まった。18世紀には,リボン織業に専門化したサンテティエンヌの繁栄ともあいまって,フランスはヨーロッパ随一の絹製品の生産高を誇ったのである。このころのリヨン絹織業の生産組織は,原料の購入,その加工の委託と監督,製品の販売に従事する織元層,作業場と織機を所有しみずから製織に携わる親方層,親方のもとで働く職人層の3者から成っていた。革命期の混乱も,ナポレオンによる絹着用の奨励や,1804年にJ.M.ジャカールの発明した新型の紋織織機(ジャカード)による豪奢な織物の容易かつ迅速な製織の開始によって解消され,19世紀前半にフランス機業は第2の黄金時代を現出した。しかしながら,19世紀以降の絹織業の基本的特徴は〈大衆化〉現象の進行にあった。すなわち身分制社会の解体と工業化にともなう諸国民の所得水準の向上の結果,中産階級以下の人々も絹製品の消費者となり,生産の主力がしだいに並質,低質の製品へ移る傾向が顕著となったのである。

 ヨーロッパ諸国における絹織物工業発展の強力な契機をなしたのは,1685年のナントの王令廃棄によるフランス人新教徒の絹職工たちの各国への亡命であった。イギリスでは彼らはロンドンやコベントリーに定住し,それらを拠点にしてイギリス絹工業は羊毛工業に次ぐ重要な繊維工業に成長した。しかしそれは,工業製品輸出の見返りとして輸入された中国・インド産の低質絹に依存せざるをえないという弱点を抱えていた。1860年の英仏通商条約により絹工業に対する保護関税が撤廃されたことにより,他方では労働組合運動の激化や労賃の高騰も加わって,しだいに衰退に向かい,以後イギリスは絹製品の最大の輸入国として重きをなし続けた。

 ドイツの絹工業は13世紀にケルンに興り,16世紀後半にはフランクフルト・アム・マイン,17世紀後半にはクレーフェルトKrefeldにおいて栄えたが,フランス人新教徒の移住を機に国家主導のもとにベルリンでの振興が図られ,18世紀末にはリヨンに代わるほどの繁栄を示した。しかし19世紀には安価な労働力を求めて絹織物業はライン川流域諸州に移動し,クレーフェルトとエルバーフェルトElberfeld(現,ブッパータール)がその二大中心地となった。ドイツ機業はとりわけ低質ビロードの製造に特化した。19世紀後半以降は技術教育の拡充,労働力の低廉さ,労使の協調,なかんずく世界市場の積極的な開拓をてことして,フランスを急追する躍進ぶりを示した。

 スイスにおける絹織物工業の中心はチューリヒであり,バーゼルはリボンの生産地として栄えた。スイス絹業の特徴は,豊富な資本ならびに低廉で勤勉かつ器用な労働力を用いて,安価な並質品の生産に専門化したこと,したがって当初より機械設備の開発に力を注いだことにあった。しかも製品の輸出率が全生産高の4分の3ときわめて高く,イギリス,アメリカ合衆国などが主要な輸出市場であった。

 アメリカ合衆国における絹工業の本格的な発達は,1860年代前半に設定された外国産絹織物に対する従価40~60%という高率の保護関税のもとで,ニュージャージー州パターソンを中心にして開始された。撚糸,織布,染色,仕上げの諸工程を同時に開設し,ヨーロッパ各地から最新の設備の導入や各部門の職工長の招請を行って,絹製品の自給体制の確立に努めた。その結果,1870-1924年に工場数は139から約1600へ,労働者数は5400人から15万人へ,生産高は661万ドルから7億6100万ドルへと記録的な成長がとげられた。1928年の世界の絹消費高に占めるアメリカ合衆国の割合は実に83%にも達し,このころには生産面でも世界最大の機業国たる地位を築き上げていた。
執筆者:

歴史

日本に絹がいつごろもたらされたかは判然としないが,福岡市比恵遺跡では,弥生時代前期中葉(紀元前100年ころ)の甕棺(かめかん)から絹布が出土したことが報告されている。また3世紀の事情を記述した《魏志倭人伝》には,当時すでに日本で養蚕が行われ,絹織物がつくられていたことがしるされており,243年には倭王が〈倭錦〉〈絳青縑〉を魏に献じたこと,女王卑弥呼の死後には〈異文雑錦〉20匹を貢じたことを伝えている。また《日本書紀》によれば,応神帝37年には呉の国より織女を招き,錦綾などの高級織物の製作が彼らによって始められたとある。しかしこれらがいかなるものであったかは不明で,今日各地の古墳から発見されている絹織物のほとんどは平絹か,単純な紋綾にとどまる。

 飛鳥時代の絹織物は法隆寺伝世の品々にみるように,中国隋代の織技を伝える錦綾類が多い。また《天寿国繡帳》(中宮寺)のような刺繡品も伝世しており,絹織物の世界もしだいに多彩となってくる。奈良時代には帰化人による高級織物の製織から,ようやく地方における錦綾の製作へと進んでいった。また八省の官制が整うにともなって,織部司(おりべのつかさ)では朝廷,官の用度や衣服の料をつくり,高級織物の統制にあたった。正倉院伝世の染織品のなかにも当時日本で織られたことの明確な調庸の綾,絁のほか,羅,﨟纈,纈,錦についても国産と推察されるものがある。平安~鎌倉時代には前代までの織部司が衰退し,かわって大舎人(おおとねり)が高級織物の製作にあたるようになった。地方には豪族の私織が多くなり,自給自足的な製織に甘んじて技術的な進歩はあまりみられなかったようであるが,この時代に奈良時代の大陸文化直輸入の織物からしだいに脱却し,技術的にも文様においても日本の国民性にあった絹織物がつくられてきた。今日残っている近世の有職(ゆうそく)織物の原型もこの期につくられたものである。とくに錦には糸錦や大和錦と呼ばれる錦が現れ,以後の和風錦織の基礎をつくった。また地方の特産としての綾,平絹が各地に生まれ,近世以降の発達の根強い地盤となったことも見のがせない。

 近世以降は主として中国明代染織の輸入によって絹織物業も新しい刺激をうけ,急激に隆盛してきた。金襴,緞子,金紗をはじめとする新様式の輸入織物の模織が京都で始められたのも,桃山時代から江戸初期の間であった。江戸中期ごろまで日本の絹糸の質は中国産に劣っていたが,国費の流出をふせぐ意味から輸入が制限され,国産の絹糸が用いられるようになると,それが各藩における殖産事業と合致して各地で絹糸,白絹を生産するようになった。
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17世紀における絹織物業の中心地は京都西陣(西陣織)であり,中国からの輸入原料生糸の割当て(糸割符(いとわつぷ))などの点で江戸幕府の手厚い保護を受け,堺や博多などの絹織物業を圧倒しつつ発展していった。幕府は一方で百姓・町人による絹物の着用を厳しく制限しながらも,武士階級には参勤交代,妻子在府制などを通じて江戸における高度な消費生活を強制しており,西陣機業は彼らに高級絹織物の安定した需要を見いだすことができたのである。加賀,美濃,近江,上野などでも農家の副業としての絹織物業が営まれていたが,それらは古くからの地機=居坐機(いざりばた)による平絹や紬(つむぎ)の生産にとどまり,西陣の専門手工業者が高機を用いて織る錦,綾,繻子(しゆす),縮緬(ちりめん)などは生産できなかった。17世紀末の元禄期になると百姓・町人でも絹物を着用する者が増えはじめ,幕府も分限に応じての着用を認めるようになった。こうした需要拡大を背景に,18世紀に入ると西陣の技術が各地へ伝えられて地方機業が発展するようになる。丹後地方では1719年(享保4)と22年に西陣の縮緬製織の技術を習い帰った者たちが丹後縮緬をつくりはじめ,その技術は52年(宝暦2)に近江長浜へも伝えられて長浜縮緬の生産が開始された。また関東の桐生織物にも1738年(元文3)に西陣織物師弥兵衛により高機技術が導入され,しだいに高級織物が生産されるようになった。そして地方機業の生産した田舎絹が大量に西陣へも流入しはじめたため,西陣の機屋は44年(延享1)に奉行所へ訴えて流入量を制限してもらうとともに,翌45年に高機屋630軒で株仲間を結成した。

 仲間規制と高水準の技術により西陣機業は19世紀初めまで発展を続けたが,他国への技術伝播は禁を破って繰返し行われ,地方機業はさらに各地で発展した。1841年(天保12)に天保改革の一環として株仲間の解散が命ぜられたことは,奢侈(しやし)禁止令とあいまってとりわけ西陣機業に大打撃を与えた。改革前2219軒を数えた西陣高機屋は10年間で1201軒にまで減少し,幕末の西陣機業は不振続きであった。幕末における絹織物業の生産形態としては,桐生の吉田清助家が49年(嘉永2)に男子7名,女子11名を擁するマニュファクチュア(工場制手工業)を経営していたような事例もあるが,それは西陣織の特殊な技術を秘密にするためのもので,一般的には小経営が基本であり,織元が彼らに原料糸などを支給する前貸問屋制が広まりつつあった。

 1859年(安政6)の開港による生糸輸出の開始と政局の激動は,原料市場と製品市場の両面から絹織物業を一時沈滞状態に陥らせたが,綿織物業のような輸入品の重圧を受けることはなく,明治維新をへて絹織物業はふたたび発展しはじめた。西陣織工場に74年導入されたジャカード(紋織装置)とバッタン(飛杼(とびひ)装置)はその後各機業地へ伝えられ,90年代に急増する絹織物生産を支えた。絹織物(絹綿交織を含む)の主産地は1887年には京都が生産額で抜群の地位を占め,群馬,山梨,栃木がそれに続いていたが,1907年にはその差はちぢまり,京都,福井,群馬,石川の順に並ぶかたちに大きく変化した。これは福井,石川両県を中心に輸出羽二重の生産が急増したためである。この両県では小経営からマニュファクチュアに発展するものが続出したが,絹織物の大半は国内で消費されており,国内向け絹織物の多くは問屋制支配にしだいに包摂されていく小経営によって生産された。もっとも問屋制支配の展開度は,厳しい国際競争にさらされた綿織物業の方が顕著であったことも留意されなければならない。国内市場向け絹織物業において問屋制支配が展開したのは,奢侈品としての絹織物に対する国内市場がきわめて不安定だった点に大きな原因があるといえよう。

 絹織物業への力織機の導入については,1889年に日本織物会社(桐生)と京都織物会社(京都)が輸入力織機を据え付けた事例があるが,輸入力織機は一般にはあまり普及しない。山形県鶴岡の斎藤外市による斎外式絹力織機(1898完成)や石川県金沢の津田米次郎による津田式絹力織機(1900完成)などの安価な国産力織機が,福井,石川などの輸出羽二重業で一斉に採用されたのは1900年代中期である。だが複雑な国内向け絹織物の生産に力織機が導入されるためには,色の違う緯糸を入れた数多くの杼を備えた多丁杼力織機などがつくられねばならず,桐生,足利で力織機台数が手織機台数をこえたのは1927年であり,西陣にいたっては30年代中期であった。力織機の採用により絹織物業も機械制工業段階に進んだとはいえ,工場の多くは中小規模であり,若年女工を中心とする職工の労働条件は劣悪な状態が続いた。

 1920年代に入ると福井,桐生を先頭に人絹織物の生産が本格化し,国内におけるレーヨン工業の発展に支えられつつ,30年代には旧来の各絹織物業地で絹織物生産にとってかわるようになった。福井,桐生では1928年に,石川,足利では31年に,それぞれ原糸消費の中心が生糸から人絹糸に移った。とくに輸出市場では人絹織物の進出が著しく,絹織物輸出の停滞ときわだった対照をなしていた。人絹織物業への転換にともない機業家の商社への従属が進んだが,福井では県外商社が優位を占めたのに対し,石川では産元商社が支配するというように,産地による違いがみられた。

 日中戦争以降の戦時統制により壊滅的なまでに縮小された絹・人絹織物業は,戦後しだいに復興し,1950年代中期には戦前のピーク時(1930年代中期)に匹敵する数量の絹織物,人絹織物の輸出を行ったが,その後は各種の合成繊維が出現したため繊維製品全体のなかでの地位は大きく低下してきている。今日では中国,韓国,台湾などからの輸入品の圧力を受けて,その対策に苦慮しなければならない状態にある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「絹織物」の意味・わかりやすい解説

絹織物
きぬおりもの

絹糸、あるいは玉糸(繭のなかに2匹以上のカイコが入ったものから糸を引いたもの)、柞蚕(さくさん)・天蚕(てんさん)・エリ蚕などの野蚕糸、紡ぎ糸・絹紡糸など紡績した糸を使って織物としたものの総称。これを大別すると、生糸をそのまま使い織り上げてから精練漂白する生絹(きぎぬ)織物(または単に生絹・生(き)織物・後染めともいう)と、生糸を糸のまま精練漂白したのち製織する練絹(ねりぎぬ)織物(または単に練織物・先練ともいう)とに分けられる。絹を練るのは、生糸のままでは、繊維の表面に膠質(こうしつ)のセリシンが付着して平滑でなく、光沢がないので、これを除去し、絹本来の手ざわりが滑らかで、光沢のあるフィブロインを露出させる必要がある。したがって、製織する前と後のいずれかで精練漂白し除去することは、織物自体の性質を変えてしまうことになる。

 絹織物は、糸質、糸の撚(よ)り、織物組織、産地事情などにより、しわのある織物、光沢のある織物、地薄の透いてみえる織物など、多種類にわたる織物が生まれるが、代表的織物には、錦(にしき)・綾(あや)・羅(ら)・唐織(からおり)・繻子(しゅす)・緞子(どんす)・金銀襴(らん)・羽二重(はぶたえ)・縮緬(ちりめん)・綸子(りんず)・お召・銘仙・大島などの伝統的織物や和服地、綴錦(つづれにしき)・博多織(はかたおり)などの帯地、ブロケード、タフタなど広幅に織り出した洋服地などがある。

 絹の製織には、絹の性能が問題になるが、伸展率が大きいので、織機の織前(おりまえ)を長くしなければならず、一間機(いっけんばた)とよばれるように高機(たかばた)にあっても、非常に長い機を使用する必要があった。とくに江戸時代には、絹の着用が制限されたので、一般には西陣に生産が集中し、地方では国産奨励のため各藩でつくられたくらいで、そのため織機も使用範囲が狭い。近代的鉄製絹織機の国産化は、津田米次郎(よねじろう)が北陸の機業場建設の過程において、絹用力織機の改良に努め、ようやく1902年(明治35)に金沢商業会議所会頭水登勇次郎の協力を得て、津田式動力織機の実用化に成功し、輸出羽二重の生産に寄与することになった。また1898年(明治31)には、山形県鶴岡(つるおか)の斎藤外市により斎外(さいと)式力織機が発明され、金沢市において吉田良作が製作販売するや、能率的で津田式より安価であることから、高い普及度をもつことになった。これらの力織機製作に刺激され、模倣と一部の改善により大西・川崎・吉岡・岡・清水・表などの各式の力織機が製作された。

 絹織物の寸法は、綿織物と同じく広幅と小幅物がある。輸出向けはすべて広幅で、91.4センチメートル(36インチ)幅のものが多く、内地向けは帯地などの場合を除いて一般に小幅で、着尺地は産地事情により幾分異なるが、約36センチメートル(鯨尺9寸5分)を標準としている。また長さでは、輸出向けは1反(一般的には50ヤード、約45.7メートル、品種により30ヤード)で、内地向けは1反(鯨尺3丈、約11.4メートル)、または1匹(約22.8メートル)を単位としている。絹織物の厚薄を表すときに、匁付(もんめづけ)(あるいは目付ともいう)が使われるが、これは精練したのちも幅1寸、長さ60尺の重量を匁(1匁=3.75グラム)で示し、たとえば4匁であれば四匁付という。

 絹の性能は、全般的にあらゆる繊維のうちでいちばん上品で温雅な光沢があり、古くから高級織物に用いられてきた。長所としては、非常に繊維が細くて長く、しかも強いので、地薄な羅や紗(しゃ)などの織物から組織の緻密(ちみつ)な織物まで、たやすく織ることができ、熱の伝導率が低いため保温性に富んでいることである。そのうえ、染色は容易であり、明るい色相に染めることができる。短所としては、日光によって脆化(ぜいか)しやすく、長く貯蔵しておくとき褐変することである。またアルカリ性に弱く、溶解するため、染色のときや洗濯には注意を要する。しかし、この欠点も樹脂加工などの処理法によって改善されつつある。

 絹の生産地は、伝統的な京都市の西陣(にしじん)一帯や九州の博多などがあるが、一般的には、生絹織物と練絹織物により生産地域が大きく分かれている。これは、地域により、養蚕による原料供給、自然条件としての水質・水利・年間温湿度差の大小が、織物生産に大きく影響を与えているのである。生絹織物は、日本海に面する北陸から東北地方にかけての多湿地帯で織られ、福井県・石川県などの羽二重・縮緬・塩瀬で代表され、練絹織物には、銘仙・甲斐(かい)絹・タフタ・お召などがあり、関東平野の山裾(やますそ)一帯に広がる結城(ゆうき)・足利(あしかが)・桐生(きりゅう)・伊勢崎(いせさき)・秩父(ちちぶ)・八王子などで生産されている。ほかの地方でも、近世中期以後に伝えられた織物技術を受け継いで特徴ある織物を生産している。

 絹織物の歴史は、新石器時代に入って中国で発生をみた。養蚕・製糸とともに、製織技術は、すでに殷(いん)代に高度の段階に達し、紋織物さえも織られている。これが漢代になると、経糸(たていと)を使って模様を表す経錦(たてにしき/けいきん)が製織されるに至り、古代中国の絹織技術は最高に達した。製品は、シルク・ロードと海路を通して西方世界に運ばれ、西方世界・ローマ帝国において、その品質は賞賛され、金貨と同じ重量で取引されたといわれる。しかし中国の国産保護のため、西方へ蚕種の伝わったのは比較的遅く、6世紀中ごろで、やがて中近東から地中海世界にかけて絹生産が開始されるに至った。その中心はペルシアであり、とくにササン朝ペルシアの時代には、絹織物の生産が盛んになり、その流れは、今度は反対にシルク・ロードを通って中国にもたらされ、そして日本に達し、飛鳥(あすか)・奈良時代の錦綾(にしきあや/きんき)を飾った。地中海世界においては、ローマ帝国にもたらされた絹織物はみごとに消化され、イタリア、スペイン、そして南フランスにまで生産が拡大されることになる。中世の絹織物の実体は、キリスト聖者の聖骸布(せいがいふ)にみることができる。そしてフランスのリヨンはコルベールの保護奨励によって非常に栄え、近世のヨーロッパにおける伝統美の世界を築き上げた。

 日本へは弥生(やよい)式時代の前期に北部九州へもたらされた絹断片が、鉄製品に残存して出土し、すでにこのころには中国、朝鮮半島より伝来しており、一部に絹織物の生産が行われたものとみられる。そして古墳時代に入ると、さらに出土は増加の一途をたどり、中期から経錦、後期から綾の出土がみられ、高級織物の生産が盛んとなり、衣料・桂甲(けいこう)に使用された。飛鳥・奈良時代には、税制の調(ちょう)として、おもに西日本で生産された。錦・綾・羅は当時の代表的高級織物であり、絹・絁(あしぎぬ)が一般的な絹織物であるが、これらは律令(りつりょう)制下に国家が強力的に推し進めた生産であるため、やがて古代末期には衰退するに至り、織部司(おりべのつかさ)や地方国衙(こくが)生産においてわずかに命脈を保ったにすぎない。中世にはわずかではあるが、宋(そう)の織物が輸入され、また国内生産も古代の伝統を引き継いで、阿波(あわ)絹・美濃(みの)八丈・常陸(ひたち)絹・紀伊かとり・石見紬(いわみつむぎ)などの特産品も生まれた。中世末から近世初頭にかけて生産の転換期を迎え、中国(明(みん))から新しい織物技術が伝来し、綸子・唐織・緞子などが国産化された。とくに絹の撚糸(ねんし)法が伝わり、縮緬という皺(しぼ)のある織物がつくられ、京都縮緬を生んでから、各地へ伝わり、丹後(たんご)縮緬・岐阜縮緬・長浜縮緬などの地場産業を生むこととなった。とくに高級織物の生産は西陣が中心で、各地の織物はその補助的な役割を果たすにすぎなかったが、需要の増大とともに西陣だけではまかないきれず、近世中期以後は、西陣から技術者を招聘(しょうへい)したり、藩主が国産奨励のため、技術を導入するなど、各地へ伝播(でんぱ)していき、特産品をつくっていった。

 明治時代になると、西欧機械技術の導入により、ジャカード、バッタン装置などが取り入れられ、また近代的な富岡製糸所・築地(つきじ)製糸場などによって、機械製糸が良質の生糸を供給したが、それによって輸出・内需ともに需要をおこす誘因ともなり、第二次世界大戦に至るまで生産額は上昇の一途をたどった。とくに広幅輸出羽二重が盛んに生産され、第二次世界大戦直前には年産額約6億4000万平方ヤードに達した。しかし19世紀末にはレーヨンが発明され、人絹(人造絹糸)とよばれて、絹に比べて安価なことから、しだいに絹の分野を蚕食し、また戦前から開発されていたナイロン生産は、戦後、絹にとってかわって進出し、絹生産を圧迫することになった。とくに婦人用靴下の分野では、まったく絹を駆逐することになった。この傾向はもとの状態へ復帰しないようにみられたが、戦後における生活水準の向上は、絹織物独特の華麗な風合いが再認識され、さらに和服への懐古趣味は一つのブームを生み、高級織物としての地位を回復する結果となった。戦後の養蚕は、将来の見通しが十分でなかったので、クワの作付面積の縮小転換が図られ、生糸生産高は減少し、漸増する生糸需要量をまかなうことができず、1967年(昭和42)ついに生産輸出国から輸入国に転落した。このような消費傾向を反映して、絹の光沢と風合いをもつ合成繊維が生まれ、着物の分野に合成絹として進出している。

 絹織物の品質については、日本工業規格(L)のなかに定められており、絹織物試験法に規定されている。絹の取扱い方法で注意を要するのは、絹自体の性質をよく知っておくことである。洗濯では、低温で中性せっけんを使って洗い、冷水でよくすすぐ。せっけん分が残ると生地に絡み、光沢、手ざわりが悪くなり、黄褐変を呈する。紫外線に侵されやすいため、日陰干しにする。絹には増量剤として第一塩化スズを施したものがあるが、これは湿気をよく吸収し、さらに外気の温度の上昇につれて、いわゆるむれを生じ、質をもろくすることがある。しかしながら加工技術の進歩から、樹脂加工によって、絹の欠点である黄褐変防止や、耐摩耗性、染色堅牢(けんろう)度などの向上が図られ、従来の取扱いにくさからの改善がなされつつある。

[角山幸洋]

『角山幸洋著『日本染織発達史』(1967・田畑書店)』『京都造形芸術大学編『織を学ぶ』(1999・角川書店)』『山脇悌二郎著『事典絹と木綿の江戸時代』(2002・吉川弘文館)』

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百科事典マイペディア 「絹織物」の意味・わかりやすい解説

絹織物【きぬおりもの】

カイコの繭からとる糸を原料とした織物。屋内で飼育される家蚕絹が中心であるが,野生のサクサン(柞蚕)やテンサン(天蚕)(山繭とも)による野蚕絹もあり特有の光沢をもつ。前3000年ころ中国で作られたと伝える。シルクロード(絹の道)を経てヨーロッパに運ばれ,日本には朝鮮を経て伝来したと思われるが,その時期は判然としない。福岡県比恵遺跡では,弥生時代前期中葉(紀元前100年ころ)の甕棺(かめかん)から絹布が出土したことが報告されている。また3世紀の事情を記述した《魏志倭人伝》には,当時すでに日本で養蚕が行われ,絹織物がつくられていたことがしるされており,243年には倭王が〈倭錦〉などを魏に献じたこと,女王卑弥呼の死後には〈異文雑錦〉20匹を貢じたことを伝えている。絹織物は優美な光沢があり,軽くて丈夫で弾性に富み,自由な染色ができる。アルカリや日光には弱い。製造法は2系統あり,生糸のまま織り,精練せずに,あるいは精練してから染色するのを生織物といい,羽二重塩瀬(しおぜ),縮緬(ちりめん),(しゃ),(ろ)などがある。生糸を精練し,白のまま,あるいは染色してから織るのを練り織物といい,(つむぎ),銘仙御召,絹ビロード,博多織(にしき),金襴(きんらん)などがある。また繭,副蚕糸などから作る絹綿を紡績した絹紡糸で織ったものに富士絹,ロー・シルクなどがあり,毛織物に似た趣をもつ。近年絹に似た合成繊維も作られているが,絹織物の高級衣料としての需要は大きい。主産国は日本,中国,インド,イタリア,フランスなど。→織物
→関連項目織物工業生糸絹一揆蚕糸業

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「絹織物」の意味・わかりやすい解説

絹織物
きぬおりもの

絹糸を使用した織物の総称。古くから高級織物として,各種繊維のなかでも装飾的な素材として珍重され,種類もきわめて多い。その変化は主として絹糸の種類,織組織,絹糸の精練程度および工程,柄による。絹糸としては家蚕糸,野蚕糸,絹紡糸,紡紬糸,紬糸などがある。生糸は1本の糸が 600~2000mあって天然繊維中最も長く,これが紋織効果を大にし,平織,斜文織,繻子織およびこれらの変化組織による織柄も多種類ある。製織時の絹糸の精練の有無によって生 (き) 織物と練り織物に分けられる。前者は生糸のまま織ったものであり,後者は生糸を精練してセリシンおよび不純物を除去した練り糸で織ったものである。練りの程度により七分練り,五分練りがある。さらに場合によっては製織後精練を行い,縮 (ちぢみ) などの特殊効果をあげることがある。生織物として羽二重,縮緬,富士絹,絹紬,ジョーゼット,塩瀬,生絽,綸子,練り織物としてお召,銘仙,琥珀,甲斐絹,タフタ,明石,八丈,ビロード,繻子,八端,縞絽,緞子がある。セリシンの残留度により風合いや特性を異にするが,一般に熱伝導率は低く,吸湿性が高く,耐アルカリ性,耐光性は低い。

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世界大百科事典(旧版)内の絹織物の言及

【イスラム美術】より

…後者は,オスマン・トルコの代表的なタイプであるが,16世紀後半には,深紅色,緋色を呈色とする,いわゆる〈アルメニアの赤土〉の使用によって,いっそう華やかさを加えた。【杉村 棟】
[染織]
 質・量を誇るイスラム工芸のなかでも染織は主要な分野をなし,特に絹織物とじゅうたんがめざましい発展を遂げた。中国から伝わった絹織物は,ササン朝以降オリエント世界で開花し,イスラム世界の拡大とともにヨーロッパに伝播し,ロマネスク文様の源泉の一つとなるなど,美術の東西交流史上重要な役割を果たした。…

【織物】より

…中国では1958年に浙江省呉興銭山漾の新石器時代遺跡第4層内の竹筐(ちくきよう)の中から,平織の小裂(こぎれ)や撚糸,組帯が発見されている。その素材は家蚕の絹糸とされているが,この地層から併出した稲もみの放射性炭素による時代判定では紀元前2750±100年となっており,この時点で中国では養蚕がなされ,絹織物を製織していたことになる。こうしたデータから,織物の存在は少なくとも新石器時代まではさかのぼりうるが,織物の発生はそれをはるかにさかのぼると考えられる。…

【軽物座】より

…中世の各種衣料のうち,とくに絹織物の特権的な取引を行っていた商人集団。すでに鎌倉末期の1303年(嘉元1)に石清水八幡宮の門前町に,室町時代には下総の香取神宮の門前に,戦国時代には越前北ノ庄の豪商橘屋に所属する軽物座等の存在をあとづけうる。…

【織工】より

…織物の製造に従事する職人。用いる材料によって,また織り方によって職種や職人のあり方は歴史的地域的に多様であり,〈織物〉〈絹織物〉〈毛織物〉〈綿織物〉などの項目も参照されたい。また日本の古代・中世の高級織物の織成に従事した〈織手(おりて)〉については別に独立項目がある。…

【明】より

…綿布の生産者は都市の専業機戸と副業農家の2種類があり,前者はどちらかといえば高級品を中心とし,後者は普通品を生産したが,多数の零細農家がこれによって重税あるいは重い小作料負担に堪えて生活を維持した(綿織物)。同じ事情で江南デルタ地帯(揚子江デルタ地帯)では,綿布以外にも副業生産が行われたが,特に蘇州府下では絹織物生産が目だっている。絹織物の高級品は,政府工場の置かれた南京,蘇州,杭州などの大都市で生産されたが,農家の副業としては最も工程の簡単な紬が生産された。…

※「絹織物」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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