朝日日本歴史人物事典 「岡本玄冶」の解説
岡本玄冶
生年:天正15(1587)
江戸前期の医者。曲直瀬玄朔の学塾で医学を学んで頭角を現し,門下第一の高弟と称されて,学塾の長となり門弟の指導に当たった。奥義書一切を伝授されて玄朔の3女(玄朔門で亨徳院系曲直瀬家を興した正純の次男正因に嫁し正因の早世で未亡人となる)と結婚,寛永5(1628)年法印に進み,初代道三の院号・啓迪院を勅許された。元和9(1623)年に将軍徳川秀忠に召されてからは,隔年に江戸に下ること10年におよび,のち江戸に定住した。官医でありながらも時の権威には屈せず,徳川家光が幼少時に天然痘に罹患した際には,乳母の春日局の反対意見に対して正論を述べ,結痂期に酒湯の法を実施させたという。没後は祥雲寺(東京都渋谷区)に葬られた。<著作>『灯下集』『玄冶薬方口解』『玄冶方考』『家伝預薬集』『増補済民記』
(宗田一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報