幕末の勤王家。上野(こうずけ)国(群馬県)館林(たてばやし)藩(秋元氏)中老。通称鈕吾(ちゅうご)、変名斯波(しば)純一郎、弾正(だんじょう)、晩年寒香園主人と号した。水戸の青山延光(のぶみつ)に師事、ついで昌平黌(しょうへいこう)に学び、のち上京して勤王に従事、1863年(文久3)藩の分領河内(かわち)国(大阪府)の雄略(ゆうりゃく)陵修復にあたった。同年幕府征長の議にあたり、藩主志朝(ゆきとも)の内命により長州に下り、その回避を運動したが、禁門の変により幕府の嫌疑を恐れて藩を追放された。維新には甲信の討幕軍に参加した。69年(明治2)帰藩、廃藩後は若松県大参事、修史局御用掛などを歴任、鎌倉宮宮司(ぐうじ)、氷川神社宮司となった。この間『皇朝編年史』『名将言行録』など著述が多い。墓所は埼玉県深谷市清心寺。
[山田武麿]
中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...