岩坂村(読み)いわさかむら

日本歴史地名大系 「岩坂村」の解説

岩坂村
いわさかむら

[現在地名]富津市岩坂

みなと村の北東に位置する。天王台てんおうだいの一部を警備のための烽火台の遺構として岩坂烽火台とよび、正木弥五郎が築いたという(「黒坂日記」富津市史など)。地内八雲やくも神社蔵の永禄一一年(一五六八)三月四日の棟札に天羽あまは嶺下みねしも郷岩坂村とみえ,神主の甚右衛門尉家次を願主として牛頭天王を建立している。大工は石井周防守。嶺下郷は天文一一年(一五四二)六月二六日の長崎ながさき白山神社蔵鰐口銘にも天羽郡嶺下郷とあり,沙弥全芳が大檀那として郷内の白山権現に大工大野筑前守作のこの鰐口を納めている。中世は岩坂・長崎を含む地域であったことが知られるが,江戸時代にはより広範囲の通称名として用いられていたようである。永禄一〇年二月二三日の北条氏繁印判状(房総古文書)にみえる野中修理亮は岩坂を拠点とする鋳物師で,氏繁により相模神奈川津・金沢津での鋳物師商売を認められている。


岩坂村
いわさかむら

[現在地名]珠洲市岩坂町

熊谷くまんたに村の北、かな川上流に位置する。中世は正院しよういん郷の内で、応永一〇年(一四〇三)二月九日の沙弥惣阿・道監連署書下(須須神社文書)方上かたかみ保の高座たかくら宮神田の所在地として「正院郷内岩坂屋敷(垣)内」とみえる。往古よりの神田(四反五)で、沙弥惣阿・道監によって長氏嫡流長谷部頼連の家門繁盛のため安堵されている。現在の神田谷地じんでんやちの辺りに相当するとみられる。天正一三年(一五八五)一一月二六日の算用状(三百苅文書)に同一二年分として「正院之内岩坂村」とあり、高一千七八俵余のうち荒八一四俵余、四ツ免引、定納高一五七俵余のうち一俵七升余は塩一〇俵で代納しているが、一〇七俵余は未進となっている。


岩坂村
いわさかむら

[現在地名]大津町岩坂

錦野にしきの村の西、白川中流域の左岸にあたる。白水はくすい台地と白川に挟まれた水田地帯で、南には比高八〇メートルに及ぶ台地の急崖が東西に連なっている。建仁三年(一二〇三)三月二九日の北条時政下文(阿蘇家文書)に「阿蘇岩坂郷」とみえ、阿蘇大宮司宇治惟次は時政によって岩坂郷の預所代に補せられ、地頭代は故七郎惟時の子が任ぜられた。正慶元年(一三三二)九月二日の造営料釘等支配状写(「阿蘇社造営文書写并記録」阿蘇家文書)に「一岩坂分 竹釘九升二合 一尺竹釘二百二十 フキナワ二十四方 ハナワ二十四方」とある。


岩坂村
いわさかむら

[現在地名]水口町岩坂

高山たかやま村の北西に位置し、北をそま川が北西流し、集落は飯道はんどう山系の山麓に形成。集落背後の山中に源太屋敷げんたやしき平子屋敷ひらこやしきなどと称する中世城館跡があり、土豪高山源太左衛門が領したと伝える。慶長五年(一六〇〇)幕府領、寛永石高帳では大坂定番稲垣重綱(越後三条藩主)領、元禄郷帳では宮川藩領、天明村高帳では丹後宮津藩領で幕末に至る。寛永石高帳では高一二八石余、慶安二年書上では田七五石余・畑屋敷七石余・永荒川欠四五石余。元禄郷帳では高一〇五石余に減少。江戸時代初期には杣川対岸の氏河原うじかわら村との間にたびたび境相論が起きた。慶長二〇年の相論は槍・長刀・鉄砲が使われまた人質を取るに及んだ。


岩坂村
いわさかむら

[現在地名]茨木市粟生岩阪あおいわさか

宿久庄しゆくのしよう村北西方の山間の村。近世を通じて粟生村(大部分は現箕面市)の一小村で、行政上村切はされてないが、粟生本村とは距離的にかなり隔りがある。応安(一三六八―七五)頃の一二月日の粟生村名田坪付帳(勝尾寺文書)に「岩坂二丁七反」がみえる。文禄四年(一五九五)の大田郡粟生村内岩坂村差出名寄帳写(池上家文書)によると高一四三石余、名請人一九(うち無屋敷三)、最高の高持は一九石余。


岩坂村
いわさかむら

[現在地名]桜井市大字岩坂

竜谷りゆうたに村の東、初瀬川支流、狛岩坂こまいわさか川流域(磐坂谷)に位置する渓谷村落。雄略天皇の泊瀬朝倉はつせのあさくら宮比定地(日本書紀通証、日本書紀通釈)。当村十二じゆうに神社境内に銀明水井と称する古井があり、「大和志」も秀井として記録する。上岩坂峯垣内みねがいとの大師堂大日如来・観音菩薩はともに平安後期。境内の六字名号碑は天文二〇年(一五五一)五月一五日在銘。


岩坂村
いわさかむら

[現在地名]深浦町岩坂

青鹿あおじか山を水源とし、北へ流れて日本海へ注ぐ大童子おおどうじ川のほぼ中流域に位置する。東西は山で、北は大童子おどじ村、南は石動いしるぎ村へ通じる。

天和年間(一六八一―八四)には大童子村・石動村を含めた総称で(折曾乃関)、天和元年の村書上絵図に家数一一とみえるという(西津軽郡史)。貞享四年(一六八七)検地帳に、田畑屋敷合せて三町三反七畝一六歩、村高二三・〇七四石、うち田方二町六反八畝八歩で二〇・四六一石、上田から下々田まで設定され、下田が一町八反二畝二四歩、一二・七九六石とあり、畑方六反九畝八歩で二・六一三石、上畑がなく中・下・下々畑で下畑が三反四畝二九歩、一・〇四九石とあり、二〇歩の郷蔵屋敷がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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