日本大百科全書(ニッポニカ) 「島津侵入事件」の意味・わかりやすい解説
島津侵入事件
しまづしんにゅうじけん
1609年(慶長14)春、薩摩(さつま)藩主島津家久(いえひさ)が兵3000を送って琉球(りゅうきゅう)王国を侵略し征服した事件。薩摩侵入、島津の琉球入り、慶長(けいちょう)の役、琉球出兵などともよばれる。
豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵により断絶したままになっていた中国(明(みん))との関係改善を図ることは、徳川家康にとって懸案事項であった。おりよく1603年陸奥伊達(むつだて)領に漂着した琉球人がいた。家康は彼らを本国に送還して、これを機に琉球からの来聘(らいへい)を要求し、さらに琉球を介して日明の国交回復を図ろうとしたが、琉球側の拒否にあい計画は挫折(ざせつ)した(来聘問題)。一方島津家久は領地拡大と中国貿易の利益など琉球領有の有利性を考え、あわせて自藩の権力的強化を図るため琉球出兵を計画、家康の同意を得た。1609年3月4日、樺山久高(かばやまひさたか)らの率いる3000の薩摩軍は山川(やまがわ)港を出陣、途中、琉球王国の版図である奄美(あまみ)大島、徳之島を攻略して、25日には沖縄本島北部の要衝運天(うんてん)港に入った。4月1日には首里(しゅり)城を落としたが、琉球側にほとんど戦意がなかったため、抵抗らしい抵抗も受けず征服することができ、琉球国王尚寧(しょうねい)をはじめ重臣を捕虜にして5月25日薩摩軍は帰陣した。家康は琉球征服の恩賞として琉球を家久に与え、琉球からの貢租取得の権利を認めた。翌年、尚寧は家久に伴われて駿府(すんぷ)で家康に、江戸で2代将軍秀忠(ひでただ)に謁見、鹿児島に戻ったのち薩摩の統治方針を受諾して2年ぶりに琉球に帰った。
帰国後、尚寧は日明国交回復の斡旋(あっせん)を行おうとしたものの、今度は中国側の拒否で実現せず、家康の期待は実らなかった。しかし、家康は朝貢国家としての琉球王国はそのまま温存し、中国への窓口としての役割を期待した。その間、薩摩は琉球の検地を行い、与論(よろん)島以北の奄美地方を琉球王国から分割して自藩の直轄領に繰り込むと同時に、他を琉球国王領と認めながらも、これに対する管理権を確保する方針をとった。また、鎖国体制の強化に伴い、琉球王国を介する対中国貿易の重要性に着目、その管理権も手中にした。こうして、東アジアに独立自営の国家として存在してきた琉球王国は、薩摩藩を介して幕藩体制の一環に編成されることになった。
[高良倉吉]
『上原兼善著『鎖国と藩貿易』(1981・八重岳書房)』