琉球征服(読み)りゅうきゅうせいふく

改訂新版 世界大百科事典 「琉球征服」の意味・わかりやすい解説

琉球征服 (りゅうきゅうせいふく)

1609年(慶長14)薩摩の島津氏が樺山久高を将とする3000余名の軍勢を派遣して琉球を侵略した事件。島津侵入事件ともいう。徳川政権は16世紀半ばに断絶した日明両国の国交回復を対外政策の基本とし,そのための対明交渉を琉球に斡旋させる目的で,1602年冬陸奥の伊達領に漂着した琉球人を島津氏に命じて本国送還させ,琉球に聘問使(へいもんし)の派遣を要求したが,琉球側がそれに応ぜず,来聘問題は薩琉間の政治問題となった。琉球出兵はこのような対明政策を背景として行われた。すなわち,06年3月島津氏は琉球の奄美大島に侵攻する大島入(おおしまいり)の談合をもった。これは前年8月15日,肥前平戸の松浦氏が7月28日幕府から同地に漂着した琉球船の送還と懸案の来聘問題で琉球の打診を命じられたと島津氏に通報したことが,島津家久と父の義弘にこれまでの対琉球関係を維持するために来聘問題解決の手段としての武力行使を決意させたからである。しかし談合は義弘の兄義久と談合衆のサボタージュにあって不調で,家臣団は外征に消極的だった。一方,島津氏は家臣団に適正な知行制度を確立しておらず,不満が鬱積していた。4月に入り,幕府の命による慶長国絵図,郷帳ができ上がって11万8000石の隠知行が明るみに出ると事態は一変する。5月1日義弘は家久に大島入を機に隠知行を糾明(=知行問題の解決)するよう進言し,大島入に新たに大名権力再編の課題を付与したのである。6月6日家久は大島入を島津家の財政難打開策として位置づけるとともに,17日徳川家康にその外征を願い出て許された。こうして島津氏の私的政策であった大島入は幕府公許の琉球入に発展した。

 08年4月島津氏は琉球との来聘交渉に見切りをつけた。8月家康出兵準備といま一度の来聘交渉を命じたが,9月6日島津氏は全家臣団給地40万2180石を対象に軍役令を定め,琉球入にはずみがつく。島津氏の目的は琉球に対する領土拡張にあった。島津軍は09年3月4日山川港を出帆,途中大島,徳之島を攻伐して沖縄島に至り,4月1日首里城を落とし,5月25日国王尚寧(しようねい)を捕虜にして鹿児島に帰陣した。7月7日家康は琉球征服の功を賞して島津氏に琉球を与えた。11年9月,島津氏は沖縄諸島以南8万9086石を琉球王府領とし,かつ薩摩への毎年の貢納物を定め,奄美諸島は同氏の直轄地とする仕置を行った。ついで翌10月から14年にかけ薩摩,大隅,日向諸県郡に慶長内検を行い,琉球の土地からの収奪を成立条件とする籾高(もみだか)制に基づく藩体制=外城(とじよう)制度が成立した。一方,幕府の対明政策は,13年日本の希望する対明通交形態として,(1)日本の商船が明に渡航する,(2)日本と明の商船が琉球で出会い交易する,(3)琉球から毎年明に遣使する,という案を島津氏が琉球に示し,14年秋渡明した進貢使をして交渉させたが,翌年明側の全面拒否が伝えられて破綻した。

 幕府の対明政策を背景に,島津氏が隠知行に象徴される大名権力の矛盾の打開を図ったのが,琉球征服の真相である。この事件を契機に,これまで日本と異なった歴史を歩んでいた琉球が日本に編入されてゆくことになった。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「琉球征服」の解説

琉球征服
りゅうきゅうせいふく

江戸幕府が対明政策の一環として薩摩国の島津氏に行わせた琉球侵略。徳川家康は1599年(慶長4)以降,豊臣秀吉の朝鮮侵略後の講和交渉に着手した。家康は琉球に明との講和を仲介させるため,1602年冬,奥州伊達氏領に漂着した琉球人を島津氏に命じて送還させ,尚寧(しょうねい)王に来聘を要求したが,琉球は応じなかった。06年3月島津氏は来聘問題の解決と版図拡大の二つを狙って琉球出兵を計画し,09年3月樺山久高を大将に3000余を出兵。4月1日尚寧が降伏,同4日首里城を開城した。5月末島津軍は尚寧・三司官らを鹿児島に連行し,7月7日家康はその戦功を賞し琉球を島津家久に与えた。10年8月尚寧は家久にともなわれて駿府で大御所家康に,江戸で2代将軍秀忠に会見。幕府は尚寧に琉球の存続を保証した。14年冬,幕府は琉球を通じて日明関係の樹立を希望するが,琉球は幕府の要望を明側に伝えなかったと思われる。

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世界大百科事典(旧版)内の琉球征服の言及

【謝名鄭迵】より

…琉球に移住した中国人の名家に生まれ,国子監に留学したあと王府最高のポストである三司官に就任した。対日本外交の上で強硬論を唱え,1609年の島津侵入事件(琉球征服)により王国が征服されるや国王尚寧とともに鹿児島に連行された。だが,薩摩の統治方針に署名することをただ一人拒否,王国の名誉を固持したまま薩摩の斬首刑に従った。…

【尚寧】より

…おりしも日本との外交関係は危機的状況を迎えていたが,09年(慶長14)春,薩摩島津氏はついに3000の兵をもって琉球を侵略したが,琉球側には戦意がなく,ほとんど戦うことなく無条件降伏を余儀なくされた。その年尚寧は鹿児島に重臣とともに連行された(琉球征服,島津侵入事件)。翌年,駿府で徳川家康に,江戸で2代将軍秀忠に謁見し,鹿児島に戻って薩摩への忠誠を誓った後,2年半ぶりに故国の土を踏んだ。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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