江戸時代における将軍を頂点とした政治体制をいう。江戸時代を通じて、将軍は封建君主であり、そのもとでの国家を幕藩制国家という。幕藩制国家は、集権的国家、総体的封建制国家、国家的農奴制国家などと特徴づけられているが、いずれにしても封建国家であって、そこでの国家と社会とは未分離であったから、幕藩体制を江戸時代の社会体制を表す用語として使う場合も多い。ここでは、幕藩体制を幕藩制国家の支配体制としておく。
[佐々木潤之介]
幕府は将軍の行政機構であり、藩は将軍の部将としての大名の行政機構である。幕藩体制は、幕藩制国家の支配体制が、この幕府と藩とを主要な行政機構として構成されていたことから、命名されたものである。幕府と藩、および藩の間でも、その行政機構の仕組みや支配の方針については、いろいろの偏差があった。しかしその相違にもかかわらず幕藩制国家は、統一的に編成された軍事力を背景にした法と諸関係の力によってつくりあげられており、その政治体制は、次のような基本的特徴をもっていた。
(1)兵農分離制を政治支配の基本とする。兵農分離制は、百姓が行う農業労働過程に、武士が支配者として直接に介入しないということを基礎に置いた制度であって、このことから、一方には村請(むらうけ)制をはじめとする年貢搾取のための機構や制度がつくられ、他方ではすべての人々をその居住の場と職業とを結び付けて緊縛し固定する、士農工商の身分制が定められた。同時に、その身分制を安定させるために、士農工商の下に賤民(せんみん)が位置づけられ、賤民制が敷かれた。
(2)石高(こくだか)制を土地所有の体系とする。石高制とは、すべての年貢賦課対象地を畑・屋敷地をも含めて、米の生産力に換算し、米の生産高によって表示する制度であって、それは、幕府や藩が米年貢制を基本としていることに基づいていた。この制度によって、石高知行(ちぎょう)制がとられ、農民も高所持(たかしょじ)百姓として位置づけられることとなった。この石高制は、農業の分野で米作農業の比重をいっそう強めることとなったが、また年貢米の消費と他種の生産物との交換のために、都市や商業に大きな特徴を与え、さらに領主経済のあり方をも特徴的にした。
(3)鎖国制によって、その体制の維持と安定とを図る。鎖国の確立過程は、国内の経済体制の確立過程でもあった。本来的に商品経済に巻き込まれつつ成立した領主経済は、この鎖国制によって維持されることとなった。同時に鎖国制は、日本の経済・社会の発展を特徴的にしたが、文芸・思想から民衆の民族意識をも含めた意識に至るまでの文化を固有なものにすることとなった。こうして、幕藩体制とは、兵農分離制を国家支配の基礎とし、石高制を土地所有体系の原則とし、鎖国制によって存立を保障・維持された、幕藩制国家の支配体制であるとすることができる。
[佐々木潤之介]
幕藩体制の主要な特徴を前述のようにとらえると、その成立と解体は、いくつかの段階をたどった。兵農分離制と石高制との原則が確定したのは、豊臣(とよとみ)秀吉政権の太閤(たいこう)検地政策をはじめとする諸政策が実施された1590年(天正18)前後のことであった。徳川家康が将軍となり、江戸に幕府が開かれたのは、1603年(慶長8)であった。その将軍権力が絶対的権威として確立したのは、1629年(寛永6)の紫衣(しえ)事件、後水尾(ごみずのお)天皇の譲位事件後であった。鎖国が完成したのが1641年、この前後には、将軍と大名との関係もほぼ確定したし、前述の賤民制の確定もこのころのことといわれる。幕藩体制下の藩体制が確立し、全国的流通編成も完成し、農村では小農民の自立と小農生産の展開がほぼ完了し、民衆のなかに身分意識が形成されて身分制が揺るぎないものになったのが、17世紀末のことであった。幕藩体制の成立は、前述の事実をどのように評価するかにかかわっている。一般には、幕藩体制は、太閤検地によって成立し、鎖国の完成によって確立し、17世紀末に完成したといわれる。幕藩体制の解体は、その指標を鎖国制にとれば1858年(安政5)の開国に、兵農分離制にとれば1872年(明治5)の「解放」令に至る四民平等政策や、同じ1872年の徴兵令に、石高制にとれば1873年の地租改正条例に、幕府や藩の解体にとれば1867年(慶応3)の大政奉還や1871年(明治4)の廃藩置県に、それぞれ画期を置くことができる。しかし、その解体の兆しは早くから現れているのであって、18世紀なかばの小商品生産の展開と田沼政権の出現、1840年代の商品生産発展の新段階と天保(てんぽう)の改革の失敗などが、そのもっとも顕著な指標としてあげられよう。したがって、幕藩体制は、18世紀なかばに解体の兆しをみせ始め、19世紀なかばに解体が決定的となり、1873年(明治6)に解体し終わったといってよいであろう。
[佐々木潤之介]
将軍である徳川氏は、本来は主従関係に基礎を置いた封建領主であり、その権力は私権力であった。その私権力が国家君主として公権力に転化するためには、その権力支配が支配の正統性を獲得することが不可欠であった。そしてその正統性の根源は、徳川氏が正統性主張の根拠になるべき独自の宗教性をもたない限り、基本的には伝統的権威に、政治的には天皇にあった。そこで、徳川氏にとっても、政治的に天皇との関係をどのように保つかによって、その支配の正統性を獲得するかということが問題であり、さらにその際、織田信長・豊臣秀吉政権の対処の仕方をどのように歴史的教訓として受け止めるかが問題であった。結果は、徳川氏がその領主制関係のなかに天皇・伝統的権威を組み込むという方法で実現した。それは、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)(禁中并公家中諸法度)の制定、和子入内(じゅだい)、紫衣事件によって、1629年(寛永6)に完成した。ここに将軍が最高の貴種であるという位置が明確にされ、その支配が公的支配であることの論拠が確定された。このように位置づいた将軍を公儀(こうぎ)とよぶ。ここで、公儀を頂点に、封建的諸関係は、公的な関係に転化していった。しかし、これに対して、封建的関係はその根源において私的関係であったから、この公儀の成立は、いわば私的関係が公的関係に連動せしめられるという結果となった。このことは、幕藩体制の国家や社会にさまざまの特徴を与えることとなった。とくに、武士の道徳においては、本来の主従関係にたった倫理とは異なった、武士道の倫理意識を形成させることとなった。
[佐々木潤之介]
幕藩制国家の支柱である将軍とその家臣および陪臣(ばいしん)は、石高知行制によって貫かれていた。そしてその石高知行制は、石高基準の軍役(ぐんやく)と不可分に結び付いていた。これらの知行―軍役に結ばれている家臣や陪臣たちは、将軍に統一的に統率される軍事組織に編成されていた。これを番方(ばんがた)という。同時にこれらの家臣や陪臣たちは、幕府や藩での行政分担者でもあった。彼らはそれぞれの行政機構での「役」人だったのであり、このような行政分担者としての編成を役方(やくがた)という。将軍の家臣は、大名・旗本・御家人(ごけにん)に区分されていたが、それらはすべて、将軍の強い統制下に置かれた。ことにそれら家臣の所領は、将軍の恣意(しい)と必要とに応じて、随時没収・変更されることを原則としており、大名の所領との関係は「旅宿」の姿であるともいわれた。その原則は、転封(てんぽう)(国替(くにがえ))・減封(げんぽう)・除封(じょふう)(改易)などの方法で実行された。したがって藩の幕府に対する自立性は弱く、藩が地域権力として自らを確立することは、きわめて困難であった。
その地域権力としての確立の困難さは、経済的な理由にもよっていた。一つには米年貢の販売が幕府の直接の支配統制下にある全国市場や中央都市において行われなくてはならなかったこと、二つには軍役の一つの形である参勤交代制や課役などによって、大名の財政がいやおうなしに中央都市・全国市場に結び付けられていることが、その大きな理由であった。将軍の陪臣は、その家臣が大名である場合は藩士にあたる。藩士は将軍の部将である大名に統率され、そのもとで番方・役方に編成されていた。大名と藩士との関係は、将軍と大名との関係と共通する部分が少なくなかったが、大名が絶対的権力をもつ封建君主である将軍の家臣であることは、前述の二つの関係を自ら異なったものにした。それは、大名の将軍に対する従属性と、大名財政に示された。大名は自らの領地での支配の混乱は将軍への不忠に通ずる、と考えたし、実際に将軍は大名の所領支配の混乱を理由に、その大名を処罰した。また、前述の状況に置かれた大名財政の多くは、すでに17世紀前半から窮乏状態に陥っていた。
[佐々木潤之介]
多くの大名領では、17世紀初めから、その家臣(=給人(きゅうにん))に知行地を現実の土地と農民とに対する支配として与えた。これを地方知行(じかたちぎょう)という。大名の家臣たちはそれぞれに自分の支配農民から年貢をとり、その年貢によって、それぞれに生活を行い奉公を勤めていた。この家臣の財政が大名の財政から自立している状況は、一方で大名財政の財政措置を大きく制約するとともに、他方で家臣財政の窮乏に伴って支配農民への誅求(ちゅうきゅう)を強め、領地支配の混乱を激しくした。この状況に危険を感じた大名の多くは、その家臣の知行制の改革を始めた。大名所領の全域の土地・農民をすべて大名の支配下に置き、家臣の直接支配を禁ずる。年貢はすべて藩が農民から直接にとり、各家臣へは藩からその知行高に応じて現米で支給するという、俸禄(ほうろく)制(蔵米(くらまい)知行)への知行制の転換を進めた。この結果、財政面では、大名財政が家中(=給人)財政をも組み込んで、藩財政として確定することとなり、借り上げなどの方法で財政操作することが可能になるとともに、藩域で一様の公平な農政を展開できることとなった。17世紀末には、大名243家のうち、地方知行制をとるもの42、蔵米知行制をとるもの201と計算されている。このような知行制の転換は、同時に大名財政機構の確立やそれと不可分の城下町商業の発展という問題から、大名の藩政への権力・権威の強化、それに伴う藩領域を舞台とした文化・思想の独自的発展にまでその結果が波及するのであって、それらのことをも含めて、蔵米知行制の成立をもって、藩体制の確立とする見解も強い。こうして、明治維新期において否定の対象となる幕藩体制は、ほぼ17世紀の末に完成した。
[佐々木潤之介]
幕藩体制は、封建的土地所有が将軍のもとに統一的・集中的に掌握されているということを基本にした経済制度を構成していた。米年貢制は必然的に米の販売と必要諸物資との交換を必要としていたから、都市と商品経済、および手工業生産物などの必要諸物資の生産は、その経済制度の不可欠の要素となっていた。全国的商品流通の体制は17世紀後半に完成した。中央都市である三都、とくに大坂の商業と、各地の城下町などの諸都市の商業とが結び付けられた。幕藩領主は、貨幣制度・度量衡制度・交通制度などの制度的な整備や、商業機構・都市民支配機構などの機構的な整備を行って、その全国商業の、国家統制のもとでの発展を図った。手工業などの諸生産力も地域的には城下町商業によって、全国的には中央都市商業によって、それぞれ編成された。そして、これらの全国商業は全体としては鎖国制によって、将軍の支配・統制下に置かれていた。
[佐々木潤之介]
幕藩制国家は人々を身分制によって支配した。士・農・工商の身分区別が設けられ、士と農・工商、農と工商の間の相互の身分移動は厳重に禁止された。それぞれの被支配身分のなかには、農村に住み農業に従事するものとしての農民身分では本百姓、都市に住む町人としての工商身分では地主・家主(やぬし)、手工業や商業を営むものとしての工商身分では「役(やく)」負担商・職人、という、身分制的基本階層が設定されていた。それぞれの身分に属する人たちは、この基本階層に対する国家支配を通じて、身分制的に支配されていた。本百姓のなかから村役人、地主・家主のなかから町役人、「役」負担商・職人のなかから仲間惣代(そうだい)が出て、それぞれに農・工商支配機構の末端機構としての役割を担わされていた。幕藩制国家がこの身分制を編成するために設けたのが賤民制であった。幕藩制国家における身分制は、家父長制的関係のなかで、人々を貴賤の序列のなかに位置づける制度であったことが、この身分制と賤民制とを不可分のものとした。
[佐々木潤之介]
鎖国制下にあって、経済・文化の国際的交流は、幕藩制国家の中央政府である幕府によってほぼ完全に掌握・統制された。このことは、国際的交流を著しく歪曲(わいきょく)し矮小(わいしょう)化したが、それでも、経済的には、輸入物資の国内流通、輸出物資の生産の両面での体制がつくられたし、文芸・思想面でも、大陸の影響を受け続けた。鎖国制のもとで、わが国独自の経済や文化の発展がみられたが、その鎖国制を維持するために大きな役割を担わされたのが、琉球(りゅうきゅう)とアイヌであった。付庸(ふよう)国として大陸との関係を保ち続けた琉球を、幕藩制国家は島津支配下の属国として扱い、国内的には異民族扱いをした。少数異民族としてわが国にもっとも近接していたアイヌに対しては、幕藩制国家は、異民族部族社会としての独自性や自立性を認めず、徹底的に収奪し尽くそうとした。こうして、幕藩制国家はその正式の国際関係を、対馬(つしま)を介しての朝鮮との関係、長崎を窓口とする中国・オランダとの関係にのみ限定することとなった。
[佐々木潤之介]
鎖国制のもとで、幕藩制社会は、固有の文化体系をつくりだしていった。幕藩制国家の政治・経済の統一的・集中的性格は、その文化のあり方にも反映しており、思想から生産技術などの生産文化に至る広い範囲で、中央文化は地方文化に対して、高い水準と強い指導性とをもっていた。幕藩制国家は、このような構造をもつ中央文化の担い手をその国家支配の体系のなかに組み込み、それによって、支配の論理を構築するとともに、文化に対する統制を行った。
[佐々木潤之介]
『山口啓二・佐々木潤之介著『幕藩体制』(『体系日本歴史4』所収・1970・日本評論社)』▽『佐々木潤之介著『幕藩制国家論』上下(1984・東京大学出版会)』▽『安良城盛昭著『幕藩体制社会の成立と構造』増訂第4版(1986・有斐閣)』▽『藤野保編『論集幕藩体制史』1~11(1993~96・雄山閣出版)』▽『井上光貞・永原慶二・児玉幸多・大久保利謙編『日本歴史大系』8~11・普及版(1996・山川出版社)』▽『長倉保著『幕藩体制解体の史的研究』(1997・吉川弘文館)』▽『朝尾直弘著『畿内からみた幕藩制社会』(2004・岩波書店)』
江戸時代の,将軍を頂点とした封建的政治体制をいう。
幕藩体制は,兵農分離制を階級支配の原則とした純粋封建体制の一形態であって,石高制(こくだかせい)を土地所有体系の基本とした封建領主が,士・農工商・賤民の政治的編成を基本とした経済外強制によって民衆支配を行い,その支配体制の総体を鎖国制という民族的枠組みによって維持,固定している政治体制である。
兵農分離制はその封地との歴史的関係を断ち切って,将軍の恣意によって配置,移動させられる武士団を作り出し,これらの武士団は,兵農分離に伴う商農,工農の分離によって農村から切り離された商人,手工業者とともに,都市に集住して,都市民を形成した。このことは,封建支配がその支配体制の中に,都市・流通支配を組み込むことをも必然的にし,さらに,鎖国制を将軍の行政機構である幕府の貿易独占という形で実現していくことをも必然的にした。この兵農分離制を基礎とした封建体制の骨格は石高制によって作られた。米年貢搾取を基本として構成されたこの土地所有体系は,すべての封地対象地を米の生産力に換算した石高に一元化し,その石高によって農民的保有から領主的所有までを貫徹させた。そして将軍はその全封地対象地を,石高によって統一的に集権的に掌握することとなった。同時に,米年貢制は武士団の再生産のための市場,商手工業の存在を不可欠としていた。ここにも,この封建支配が都市・流通支配を不可避としている理由があった。
被支配諸階級の民衆は,貴賤観念と身分観念との二つの原理による編成をうけて人格的支配をされた。身分制支配は,職業,生活と生産の場と身分との三位一体原則による支配であり,農・工商(=町人)がそれであった。それ自体差別的な序列体系である。
身分制の編成には,中世以来人々の間にひろまっていた百姓=王孫意識が利用された。王孫という表現の中には,人々には貴賤の序列があるという貴・卑種観念と,人々を結びつけているのは血脈に基礎をおき家父長が絶対的な権力をもつという家父長制的家観念が含まれていた。このことは,身分制の編成のためには,一極に,同時に最高の家父長である最貴種と,他極に,家父長制的関係から断絶させられた最卑種との編成が不可欠であった。前者の編成は将軍が天皇権威をその権力の中に組み込んで,公儀としての地位を確定することで実現した。
将軍は公儀となることによって,もともと将軍がもっていた,(1)封建的土地所有を統一的,集権的に掌握している最高位の領主,(2)封建的主従制の最高位の主君という性格のほかに,(3)封建国家としての幕藩制国家の国家君主,(4)封建的諸関係の母体となっている家父長制的関係の最高に位置する家父長,(5)人格的序列における最高の貴種としての性格を併せもち,絶対的な権威と権力とをみずからのものとした。後者の最卑種の編成は賤民制の確定として行われた。賤民はその職業からいえば農民,職人であり,生活と生産の場からいえば都市民,農村民であったが,死穢にかかわる業務を担当させられることによって,一般の農民,都市民と区別され,身分外の存在として制度化されることとなった。一般の人々は,賤民制を受け入れることによって,みずから身分制の中に組み込まれていった。
家父長制的家観念と貴・卑種観念とは民族意識をも特徴的にした。鎖国の重要なテーマであったキリシタン追放,異民族排除は,この観念を基礎にして強行された。こうして,公儀,身分制,鎖国,賤民制は連動してほぼ同じ時期に成立した。
幕藩体制の下では,一部の寺社・朝廷領を別とすれば全国の土地,人民は御料,私領に区分された。御料は幕府直轄領(天領)であり,佐渡,足尾,石見などの主要鉱山や,大坂,京都,江戸,長崎などの主要都市もその中に含まれていた。私領は公儀と主従関係にある部将に預けられた知行地で,その部将の公儀との間の位階制的序列によって,大名領(大名),旗本領(旗本)に区分された。約270にのぼる大名の中にも,加賀前田氏のような100万余石の国持大名から,1万石前後までの小大名があり,また,三家以下,譜代,外様などの格による区別もあったが,それらの大名は,みずからの家臣団を抱え,その家臣=給人(きゆうにん)に,位階制的な主従関係に基づいて知行=給人知行を与えた。こうして知行関係によって系列づけられた,将軍-家臣(大名,旗本,御家人ら)-将軍の陪臣(大名家臣)-大名の陪臣(大名家臣の家臣)という位階制的関係が作られた。
大名は,その所領内に城を構え,城下町を中心にして所領支配を行った。その大名の行政機構を藩と呼ぶ。旗本は多く江戸に居住し,その所領に小規模な行政機構としての陣屋を置いて支配を行った。旗本領は寛永年間(1624-44)や元禄年間(1688-1704)の幕府の政策によって大きく変遷したが,大名の藩による支配の体制は,おおよそ17世紀後半には固まった。これを藩体制の確立といい,それは次のことを内容としていた。(1)大名家臣=給人が給人知行地の農民に対して直接に個別的に支配を行うこと(地方知行(じかたちぎよう)という)を事実上,または制度上禁止すること。(2)藩がその直轄地(蔵入地(くらいりち)),給人知行地を含めて,所領内の農民支配を一元的に掌握して年貢を取り,大名家臣にはその知行高に応じて,藩が年貢米を支給する(俸禄制という)制度にすること。(3)小農民の把握とその生産力的安定とを基調にした藩ごとの農政を展開し,基本階層としての本百姓体制を小農民を主体として固めること。(4)城下町を中核とした領域内経済体制を確定し,その担い手としての城下町特権商人を育成すること。(5)大坂,江戸などの中央都市と藩領域経済との関係を整備し,参勤交代制や軍役,助役など大名の将軍に対する奉公関係の基礎を固めること。(6)大名の家臣に対する家父長的地位を確定し,農政を主とする行政のための家臣団の編成(役方(やくかた)という)を行い,封建的吏僚制を作り上げること。これらの藩体制の制度や政策は,ほぼ幕府のそれに倣って行われた。また旗本陣屋も同趣旨の支配体制を作り上げた。
幕藩体制は豊臣秀吉の全国統一と太閤検地によって成立し,鎖国とそれに続く幕政の展開によって17世紀半ばに確立した。18世紀半ばから,小商品生産の展開に伴う農奴制の解体によって解体しはじめ,19世紀半ばの開港によって解体は決定的となり,幕府の倒壊と廃藩置県とによって明治初年に最終的に解体した。
執筆者:佐々木 潤之介
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近世の政治支配体制もしくは社会構造をさす歴史学用語。おもに幕府と諸藩の重層的な権力で,農・工・商・賤民を支配する政治体制をいう。第2次大戦後の学界で広く使用されるようになり,とりわけ社会構造を重視する立場から,「生産物地代の上にうちたてられた純粋封建社会の政治体制」であるとされ,近世封建制の同義語として用いられた。1950年代の太閤検地論争,60年代の幕藩制構造論,70年代からの幕藩制国家論などのなかで,豊臣政権も含めた中央政権の政策基調の意義づけと国家論をめぐる論議がくり返されたが,それぞれの論争の到達点と次の論議への移行の必然性が十分には確認されないままであったため,この用語の含意も変化している。幕藩制国家論では,兵農分離制・石高制・鎖国制という近世に固有な3要素を中心に,近世国家の特質を解明する方向が示されているが,最近の研究状況には,必ずしもこうした枠組にはこだわらない傾向もある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…徳川幕府ともいう。 1598年8月の豊臣秀吉の死後にその政権の運営を託された五大老の筆頭であった家康は,1600年9月の関ヶ原の戦の勝者となって実質的に天下人の位置につき,秀吉の創出した全国支配の体制(これを幕藩体制という)を受け継いだ。そして源氏の一族新田氏の後裔という系図を創作して朝廷から将軍に任ぜられ,名分の上でも全国を統治する権限を獲得した。…
…この改訂で注目されるのは,大名のほかに将軍の近習(きんじゆう),物頭(ものがしら)を法度の対象に組み込み,彼らによって構成される行政,裁判,刑罰執行の機関を大名領主の上位機構と規定し,それへの服従を指定した点である。これによって,幕府が中央の公儀として諸藩を統括する幕藩体制の基本的構造が確立した。以後,これをもとに63年(寛文3)4代家綱のとき,耶蘇宗門(キリシタン)の禁止,不孝者処罰の2条を付加,5代綱吉は83年(天和3)個条を整理,統合して15条とし,養子の制を定め,殉死を禁止した。…
※「幕藩体制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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