薩摩藩(読み)さつまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「薩摩藩」の意味・わかりやすい解説

薩摩藩
さつまはん

薩摩・大隅(おおすみ)両国(鹿児島県)と日向(ひゅうが)国(宮崎県)諸県(もろかた)郡の一部を領有した外様(とざま)大藩。鹿児島藩ともいう。藩主島津氏。表高73万石余(籾(もみ)高)。島津氏は源頼朝(よりとも)の庶流と称し、守護大名、戦国大名に成長、戦国末期には薩隅日の3州を統一、さらに九州全土の制覇を目前にするまでに至った。しかし豊臣(とよとみ)秀吉の九州征伐(1587)に敗れ、薩隅2国と日向諸県1郡の地に逼塞(ひっそく)することとなった。関ヶ原の戦い(1600)において島津義弘(よしひろ)は西軍にくみしたが、井伊直政(なおまさ)らのとりなしで三男家久(いえひさ)(忠恒(ただつね))が旧領を安堵(あんど)された。藩主は、家久のあと光久(みつひさ)、綱貴(つなたか)、吉貴(よしたか)、継豊(つぐとよ)、宗信(むねのぶ)、重年(しげとし)、重豪(しげひで)、斉宣(なりのぶ)、斉興(なりおき)、斉彬(なりあきら)、忠義(ただよし)(茂久(もちひさ))と12代続き明治に至った。表高は1617年(元和3)60万8916石、1635年(寛永12)琉球(りゅうきゅう)高12万3700石を加えて73万2616石となる。初代藩主家久は鹿児島の城山の麓(ふもと)に鶴丸城を築いたが、天守閣や重層櫓(やぐら)のない質素なものであり、武士の城下町集中も徹底しなかった。さらに、領内を113の外城(とじょう)(郷)に分けて軍事・行政支配の単位とする特殊な外城制度(郷士(ごうし)制度)を敷いた。このため武家人口は圧倒的に多く、明治初年の調査では全人口に占める士卒人口比は全国平均の0.56%に対し薩摩藩のそれは26.38%に上っている。また農村では、門(かど)とよばれる農民共同体に耕地をほぼ均等に分配して耕作させる門割(かどわり)制度が施行された。外城、門割の2制度によって農村支配は徹底し、藩内の百姓一揆(いっき)はわずか2例が知られるにすぎない。

 1609年(慶長14)には琉球に侵入し、進貢貿易の利を得、また琉球高も加えることとなった。藩初から数度の戦争のため財政は窮迫していたが、たび重なる幕府の御手伝普請(おてつだいぶしん)、江戸藩邸や城下の火災もこれに拍車をかけた。なかでも幕命による木曽(きそ)川治水工事は工費40万両にも上り惣奉行(そうぶぎょう)平田靫負(ゆきえ)の引責自殺まで起こった(宝暦(ほうれき)治水事件)。8代藩主重豪は43歳で隠居したが、89歳で没するまで約80年間にわたって藩政に君臨した。シーボルトとも交際のある開明的君主で、積極的開化政策をとった。三女茂姫を将軍徳川家斉(いえなり)夫人とし、次子以下に中津藩、福岡藩、八戸(はちのへ)藩を継がせて勢威があり、また蘭学(らんがく)・実学を好み、藩校造士館や演武館、明時館(薩摩暦を作成)などを創立した。一方その開化政策のため藩庫は疲弊し藩債500万両にも達した。9代藩主斉宣のとき、重豪は彼の政策に反対する改革運動を弾圧(近思録(きんしろく)崩れ)したが、次代斉興のときには、調所広郷(ずしょひろさと)を登用して、奄美(あまみ)の黒糖専売はじめ、琉球密貿易、新田開発、物産開発などによる財政改革を行った。藩債500万両は、250年賦、無利子償還という「踏み倒し」で切り抜けた。このほか、一分金・二分銀の偽金(にせがね)づくりまで行われたという。

 11代藩主斉彬は曽祖父(そうそふ)重豪譲りの開明派で、洋式工業(集成館事業)をおこし、将軍継嗣(けいし)問題では一橋(ひとつばし)派として活躍した。その襲封にあたって御家騒動(お由良(ゆら)騒動)があったが、治世7年余で病没した。異母弟久光(ひさみつ)(12代藩主忠義の父)は幕末、藩の実権を握り、公武合体運動に指導的役割を果たしたが、薩英戦争(1863)以後藩論は急速に転換、イギリスに接近し、尊王討幕を掲げ、薩長同盟、薩土盟約を結んで大政奉還明治維新の実現に指導的役割を果たした。幕末維新期に西郷隆盛(たかもり)、大久保利通(としみち)、黒田清隆(きよたか)、松方正義(まさよし)、五代友厚(ともあつ)、森有礼(ありのり)ら多くの人材を生み、その人脈は藩閥官僚政府の中心となった。1871年(明治4)廃藩、鹿児島県となり、諸県郡は83年再置の宮崎県に編入。

[原口 泉]

『秀村選三編『薩摩藩の基礎構造』(1970・御茶の水書房)』『原口虎雄著『鹿児島県の歴史』(1973・山川出版社)』『原口虎雄著『幕末の薩摩』(中公新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「薩摩藩」の意味・わかりやすい解説

薩摩藩 (さつまはん)

薩摩国(鹿児島県)鹿児島に藩庁を置く外様大藩。鹿児島藩ともいう。藩主島津氏。戦国末期に貴久,その子義久・義弘が出て薩摩,大隅,日向の3州を統一したのが1576年(天正4)であり,86年までには九州制覇を遂げようとしていた。しかし豊臣秀吉九州征伐により薩隅2国と日向諸県(もろかた)1郡だけとなり,関ヶ原の戦には西軍に属したが旧領を安堵された。朱印高は1617年(元和3)60万8916石,35年(寛永12)琉球高が加えられて73万2616石,内高は太閤検地の疎漏を訂正して1612年(慶長17)73万2157石(琉球高を含む),33年69万6321石,59年(万治2)74万7193石,藩政期最後の1725年(享保10)の検地では86万7028石となった。人口は1871年(明治4)平民56万8643人に対し士卒20万3711で,平民2.8人に対し士卒1人の割となり,73年の全国比16.5人に比べれば圧倒的に士族が多い。これだけ膨大な士族人口が外城(とじよう)制度によって庶民を支配した。一揆としては1858年(安政5)の加世田一揆と64年(元治1)の犬田布(いぬたぶ)一揆の2例だけが知られているが,前者は下級士族,後者は郷士制度を欠く徳之島での例外的一揆である。なお石盛は籾高(もみだか)で,蔵入高は35万~36万石,残りの四十数万石が給地高である。給地高には門高(かどだか)と浮免(うきめん)高(本田畑),拘地(かけち)高(開墾田畑)の別があるが,士族給養の特権地として租税は籾高1石につき米9升1合の低率であった。ほかに士民ともに許される永作浮免なる開墾田畑や大山野(うさんや)という原野に近い開墾地もあり,これは門高なみの重租であったが,実測面積が広かったので,有力な士族層の占有に帰しがちであった。農民に対しては門割(かどわり)制度が強制された。

 藩財政は永年の戦争のため藩初から窮迫していたが,江戸の寛永寺や木曾川治水の御手伝普請(宝暦治水事件),たびたびの火災,島津重豪(しげひで)の積極開化政策などのため,1830年代には藩債は500万両に達し,これに対し国産の売上高は年間30万両であったから,まさに藩庫は破産していた。この藩財政をよみがえらせたのが奄美,沖縄の特産資源,ことに奄美の黒糖で,調所広郷(ずしよひろさと)の〈天保改革〉(1830-48)は活路を黒糖の専売に求め,ほかにも諸物産の専売,密貿易,偽金づくり,500万両の踏倒しなどの周密な非常手段を用い,一転して日本一といわれるほどの富国に再生した。

 国境は関所,辺路番所,津口番所で他国との接触を不自由にし,ことに奄美,沖縄は完全に他国人の目から遮断し,唐通詞を置いていた(このような二重鎖国と専売制度下の領内は自給自足のほぼ自然経済状態に保たれ,町場は未成熟であった)。一向宗が厳禁されていたのも中間収奪者とみなされたからである。しかし文教施設には力を入れ,1773年(安永2)藩校造士館,演武館,翌年に医学院,79年には明時館(天文,暦法)を設けている。〈郷中(ごじゆう)教育〉という薩摩藩独特の青少年の社会教育が,士民錬成に果たした役割は最も大きかった。

 こうして蓄養されたエネルギーをもとに,斉彬は日本最初の西洋型帆船・蒸気船の建造,水車動力洋式紡績,ガラス・陶磁器・農具・刀剣・砲丸・火薬・綿火薬・アルコール・硫酸・硝酸・鋼鉄・大小砲の製造など百般にわたる洋式工業をおこし,これらを総称して〈集成館〉と名づけたが,1858年鹿児島を来訪したオランダ人技術将校ポンペは,1日1200人もの職工人夫が働く姿を見て,〈此の如き工業を採用せば,自から日本の政策は変更を来たし,全然旧式の鎖国主義より解放さるるに至るべし〉と予言しているが,維新の大業ははたして薩摩藩よりおこされた。斉彬没後一時集成館事業は縮小され,また薩英戦争で焼かれた。1865年(慶応1)には先進国文明吸収のため青少年19名を渡英させ,またイギリス人技師を招いて機械紡績,白糖製造も始めたが維新戦争のために廃止した。
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藩名・旧国名がわかる事典 「薩摩藩」の解説

さつまはん【薩摩藩】

江戸時代薩摩(さつま)国鹿児島郡鹿児島(現、鹿児島県鹿児島市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は造士館(ぞうしかん)。鎌倉時代から当地を支配していた島津(しまづ)氏は、戦国時代末期には九州を制覇する勢いを見せていたが、1587年(天正(てんしょう)15)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征伐により、薩摩国、大隅(おおすみ)国2国と日向(ひゅうが)国諸県(もろかた)1郡に封じられた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、井伊直政(いいなおまさ)らの奔走で島津家久(いえひさ)が徳川家康(とくがわいえやす)と交渉して本領を安堵(あんど)された。09年に幕府の許可を得て琉球(りゅうきゅう)を征服、その石高約12万石を加えて1634年(寛永(かんえい)11)には表高(おもてだか)72万9000石余の大藩となった。武士を分散して農民を地域ごとに支配する外城(とじょう)制度が敷かれ、農民に対しては耕地を分割・分配する門割(かどわり)制度を設けたことにより、百姓一揆はほとんど発生しなかった。しかし、宝暦年間(1751~64)には、幕府の命令で行った木曽(きそ)三川の治水工事などによる出費によって藩の財政は窮迫した。8代藩主の島津重豪(しげひで)は開化政策を積極的に進めるとともに、1773年(安永2)に藩校の造士館と武道の演武館を開設、その後も明時館(天文館)、医学院を設けた。財政は藩債500万両に達するほどの破産状態だったが、調所広郷(ずしょひろさと)の登用により回復。11代藩主の島津斉彬(なりあきら)は、日本最初の西洋型帆船、蒸気船の建造のほか、ガラス、火薬、アルコール、砲丸、塩酸など幅広い分野にわたる洋式工業を興した。斉彬は養女の篤姫(あつひめ)を第13代将軍徳川家定(いえさだ)に嫁がせたことでも有名。斉彬没後は、異母弟の島津久光(ひさみつ)が実権を握り、公武合体運動を展開したが、薩英戦争以降は西郷隆盛(さいごうたかもり)大久保利通(おおくぼとしみち)らの倒幕派が主導するようになり、長州藩薩長同盟を結んで明治維新の指導的役割を果たした。西郷・大久保のほか、黒田清隆(くろだきよたか)松方正義(まつかたまさよし)森有礼(もりありのり)らの人材を輩出、明治新政府の中軸となった。1871年(明治4)の廃藩置県により、薩摩藩領は鹿児島県となった。◇鹿児島藩〈正称〉ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「薩摩藩」の意味・わかりやすい解説

薩摩藩
さつまはん

鹿児島藩ともいう。江戸時代,薩摩国 (鹿児島県) 全域,大隅国 (鹿児島県) 全域,日向国 (宮崎県) の一部を領有し鹿児島に城を有した外様大藩。藩主は代々島津氏で,江戸城大広間詰。島津氏は建久8 (1197) 年に大隅,薩摩守護に任じられた忠久を祖とし,織豊時代の義久は西国の戦国大名の雄としてほとんど全九州を平定していたが,天正 15 (1587) 年,豊臣秀吉の九州征伐にあって降伏し,前の3国内で 60万 5000石となる。次の義弘は文禄・慶長の役に大功があり,関ヶ原の戦いに西軍に属して敗れたが,所領は安堵され,慶長7 (1602) 年に居城を鹿児島に築く。次の家久の代の同 14年には琉球に出兵し,寛永 14 (37) 年には琉球の 12万石余を合せて 72万 8700石となり,のち,さらに 77万石に達した。藩政は古来からの支配形態を残存させた独特なもので,家臣団は城下士のほかに外城衆 (とじょうしゅう) を各郷に集住させ (外城制度) ,また門割制度 (かどわりせいど) と呼ぶ百姓支配もあり非常に後進的な体制であった。それに火山地帯,台風などの自然的悪条件,江戸から遠距離にあるための参勤交代費用の増大,幕府のたびたびの普請手伝いは藩財政を困窮させた。しかし,文政 10 (1827) 年から調所広郷 (ずしょひろさと) を中心にして施行された藩政改革は,嘉永1 (48) 年には 100万両の黒字を生み出し,同4年斉彬が藩主となるや洋式軍備と藩営工場などの建設に着手,その弟の久光は公武合体派の大名として活動し,文久3 (63) 年の薩英戦争後は討幕派として長州藩と連合して明治維新の主導権を握った。以後,維新政府の中心勢力として西郷隆盛,大久保利通らによって薩摩閥を形成。西南戦争によって西郷は失脚したが,ほかの多くの人物が藩閥官僚政府を形成した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「薩摩藩」の解説

薩摩藩
さつまはん

江戸時代,薩摩・大隅・日向3国73(琉球高含む)万石を領した外様大名
鹿児島藩ともいう。藩主島津氏は鎌倉時代以来の守護。関ケ原の戦い以降徳川氏に服し,琉球12万石をも支配。江戸後期には藩財政が窮迫し,1827年調所広郷 (ずしよひろさと) を中心に藩債整理,砂糖など特産物の増産,専売制の強化を主とする藩政改革を実施し,成功させた。13代藩主斉彬 (なりあきら) は藩営工場を建設し,富国強兵につとめた。幕末には久光を中心に公武合体運動を進めたが,のち大久保利通・西郷隆盛らが出て薩長連合を結び,討幕運動を推進した。

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デジタル大辞泉プラス 「薩摩藩」の解説

薩摩藩

薩摩国、鹿児島(現:鹿児島県鹿児島市)を本拠地とし、薩摩・大隅の2か国と日向国の一部を領有した外様藩。藩主は島津氏。琉球王国(沖縄県)に侵攻して支配下に置き、その石高もあわせて表高73万石余の大藩となった。11代藩主の島津斉彬は開明派で、蒸気船の建造やガラス製造、反射炉の建設などを行った。幕末には長州とともに明治維新の実現を主導。明治新政府で活躍した西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆などを輩出した。

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防府市歴史用語集 「薩摩藩」の解説

薩摩藩

現在の鹿児島県域。江戸時代を通して島津[しまづ]氏が藩主として治めました。幕末には藩主島津斉彬[なりあきら]が藩政の改革を行い、その弟で次の藩主の父である久光[ひさみつ]は公武合体の立場をとり政治の中心として活躍しました。薩摩藩からは西郷隆盛[さいごうたかもり]や大久保利通[おおくぼとしみち]らが活躍しています。

薩摩藩

 鹿児島藩[かごしまはん]とも言います。江戸時代に島津[しまづ]氏が治めていた場所で、旧国名の薩摩[さつま]・大隈[おおすみ]・日向[ひゅうが]の一部にあたります。江戸時代の終わりには、江戸幕府をたおすために長州藩[ちょうしゅうはん]と同盟を結び、明治維新[めいじいしん]に活躍しました。

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百科事典マイペディア 「薩摩藩」の意味・わかりやすい解説

薩摩藩【さつまはん】

鹿児島藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「薩摩藩」の解説

薩摩藩
さつまはん

鹿児島藩(かごしまはん)

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世界大百科事典(旧版)内の薩摩藩の言及

【門割制度】より

…薩摩藩全般に施行された強制割地制度。名称の初見は1197年(建久8)の《大隅国図田帳》所載姶良(あいら)庄の元吉門であるが,その性格は未詳。…

【薩英戦争】より

…1863年(文久3)薩摩藩とイギリス艦隊との間で行われた戦争。1862年生麦事件に関し,イギリス代理公使ニールは幕府に対しては公式謝罪状と償金10万ポンドを,薩摩藩には犯人の処刑と償金2万5000ポンドを要求し,幕府はこれに応じたが,薩摩藩は応じなかった。…

【俵物】より

…1807年(文化4)長州藩は俵物からの利益獲得を目ざし,独自の領内統制を行って藩の役場引請制を実施した。このころ,薩摩藩は北国筋の俵物を大規模に密買し,琉球貿易を通して俵物輸出を独自に行った。このような西南諸藩の俵物集荷の動向は,幕府による長崎貿易を衰退させる原因となった。…

【天保改革】より

…また城下町商人を抑えて藩士の負債を棄捐にしたり,藩債を解消するなど藩財政の再建に努めた。薩摩藩では茶坊主出身である調所広郷(ずしよひろさと)の改革によって,三都の豪商から借り入れていた多額の借財を250年賦償還という強硬手段で整理し,財政の破局を切りぬけた。また奄美大島のカンショ栽培に専売制をしいて利益を収めるとともに,琉球との密貿易によって藩財政の充実に成功した。…

【倒幕運動】より

…諸隊および瀬戸内(せとうち)一帯の豪農商層などの支持をえて高杉らは長州藩権力を保守派から奪取し,長州藩討幕派(正義派)は成立した。一方,薩摩藩も生麦事件(1862年8月)に端を発する薩英戦争(1863年7月)で攘夷の不可能を体験し,対英接近の道を歩み,禁門の変や第1次征長などの過程で公武合体路線から倒幕路線へと移行していった。 この尊攘運動から倒幕運動への移行の過程で成立する討幕(倒幕)派は,尊攘派の外圧を否定的媒介とした天皇の絶対性(〈国体〉論的天皇観)と,公武合体論にみられる天皇の相対化(天皇の政治的利用)という二つの相対立した政治条理を交錯させた〈政治的リアリズム〉の論理をもつにいたった。…

【外城制度】より

…薩摩藩の行政制度。薩摩藩は藩主居城の鶴丸(鹿児島)城のほかに,領内を113の区画に割って,これを外城(普通には郷という)と呼んでいた。…

【藩営マニュファクチュア】より

…これらの藩営工場では多くの人々がそれぞれ仕事を分担し,協力して働いていた。たとえば薩摩藩では,幕末の深刻な対外危機に対処するため藩主島津斉彬を中心に藩政改革を実施し,その一環として城内に反射炉を建設し,ついで溶鉱炉やガラス,陶磁器,農具,地雷,ガス灯などの各種製作所を設け,のちにこの場所は集成館と呼ばれてその規模を拡大し,1日に1200人を超す職工・人足が働いていた。佐賀藩でも幕末には反射炉を設け,さらに造船,鋳砲を目的に藩営工場を建設し,あるいは土佐藩でも開成館事業の一環として各種の藩営工場を計画し,これらは日本における近代工場創出の基盤ともなった。…

【藩専売制】より

… ところで専売制の実施は,生産者や商人による商品の自由取引をきびしく禁止し,商品を生産者から低い値段で買い占めるため,生産者は打撃を受け,そのため専売反対の一揆が起こっている例もある。薩摩藩では,大島,徳之島の島民らに甘蔗の栽培を強制し,生産された砂糖は必需品との交換で藩が一手に独占し,砂糖の密売には厳罰をもって臨み,それを藩の御用船で大坂に送って莫大な利益をあげていた。専売【吉永 昭】。…

【平田靱負】より

…江戸中期の薩摩藩家老。名は宗武,のち正輔。…

【宝暦治水事件】より

…江戸中期,宝暦年間(1751‐64)に薩摩藩が幕府の命で木曾三川(木曾川,長良川,揖斐川)治水工事を行った際,引責自刃など多数の犠牲者を出した事件。1753年藩主島津重年は御手伝普請を命ぜられるや家老平田靱負(ゆきえ)を惣奉行に任命し,上下1000人近い役人を現地に派遣して工事に当たらせた。…

【御手洗】より

…港町繁栄策として富籤(とみくじ)や町出来銀の制が行われたりした。幕末には芸薩交易の貿易港が御手洗に指定され,広島藩から銅10万斤,鉄3000駄,米3万石,繰綿(くりわた)5000本,木綿2000丸,薩摩藩から生蠟(きろう),硫黄花,製糖用平釜,現金10万両など大規模な取引が成立している。1956年大長村などと合体し,豊(ゆたか)町となった。…

【明治維新】より

…この尊攘運動の拠点であった長州藩は,第1次征長や四国連合艦隊の下関砲撃という局面に立たされたが,高杉晋作ら諸隊の決起で,藩の主導権をいわゆる俗論派から奪取し,挙藩軍事体制を整えた。一方,公武合体運動の雄であった薩摩藩は,薩英戦争(1863)の洗礼をうけることによって脱皮し,徐々に幕府から離れ,1866年(慶応2)には薩長同盟を結び,倒幕運動を推進しはじめた。この倒幕運動をすすめた薩長の討幕派は,尊攘運動の観念論からも,公武合体運動の妥協論からもぬけ出て,天皇に対しても民衆に対しても政治的リアリズムをもって対処し,むしろこれを操作した。…

※「薩摩藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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