島野村(読み)しまのむら

日本歴史地名大系 「島野村」の解説

島野村
しまのむら

[現在地名]市原市島野

野毛のげ村の西に位置する。「和名抄海上うなかみ島穴しまな郷の遺称地で、中世には島穴郷・島之郷などとみえる。地内に上茶免かみちやめん御供田ごくうでんなどの地名がある。枝郷として西に七ッ町ななつまち、南に金河原かながわらがある。文和四年(一三五五)銘の武蔵型板碑がある。応安五年(一三七二)五月の市原八幡宮五月会馬野郡四村配分帳(覚園寺文書)に島穴郷とみえる。当時馬野まの郡内の枝郷として、五月会に際して檜物師・鮎取・形木彫・田所などの酒・菓子・粽などの計一七貫五五〇文が課されていた。永禄三年(一五六〇)頃と推定される足利義氏朱印状(喜連川文書)に真野郡内として島野郷とみえ、足利公方の母芳春(北条氏綱娘)仰せにより、北条氏康が当所七〇貫文を村上民部大夫に宛行っている。同年村上氏の所望により、島之郷は守護不入とされている(一〇月一四日「北条家朱印状写」下総旧事)

文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に島穴村とみえ、高三九二石。慶長二〇年(一六一五)七月の海保郡島野村検地帳(菊間家文書)では名請人八三人のうち屋敷持二四人で(一部判読不能)、一町以上は一〇人、五反以下は五三人。

島野村
しまのむら

[現在地名]高崎市島野町

東南流する利根川井野いの川の間に広がる沖積平野に位置。本島名もとしまな村の北から東にあり、南東上滝かみたき村。北隣京目きようめ村の西に当村飛地がある。群馬郡に属し、「寛文朱印留」に村名がみえ前橋藩領。寛文郷帳では田方一千二五三石余・畑方一一九石余。一千二三石が前橋藩領、四二石余が三河中島藩領、三〇七石余が旗本日向半兵衛領。元禄郷帳では当村のうち本島名村分が分けて記されるので高九四七石。

島野村
しまのむら

明治四二年(一九〇九)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した村。明治四二年四月野束のづか村と敷島内しきしまない村が合併して島野村となり、二級町村制施行。農業・水産業が主産業で、大正二年(一九一三)の農業従事者は三八〇戸・一千六七九人、水産業は三四七戸・一千三八八人であった(後志支庁拓殖概況)。同六年の戸数四四二・人口二千九八三、耕地一五三町余のうち田八町余(後志支庁管内概況)。同九年頃から鰊の不漁が続くが、昭和元年の生産額は農業一六万九千四七六円、水産業は七五万二千四八二円となっている(後志支庁統計要覧)。同六年の農家戸数三六八、同年の鰊の漁獲六千石は最後の大漁(以上「岩内町史」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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