嶺岡牧(読み)みねおかまき

日本歴史地名大系 「嶺岡牧」の解説

嶺岡牧
みねおかまき

嶺岡五牧・峯岡牧場・峰岡とも記され、また個別に西二にしに御牧などとみえる。安房国長狭ながさ郡・朝夷あさい郡・へい郡域に存在した牧場で、嶺岡山地一帯に位置する。周囲一七里・反別一千七六〇町余に及んだ。現在の鴨川市西部と富山とみやま町東部・丸山まるやま町北東部・和田わだ町北西部にわたる。戦国期は里見家の領有する牧場で、慶長一五年(一六一〇)の里見家分限帳には「五拾俵 石井縫之介 御馬屋別当」「三拾俵 石井次郎衛門 御馬屋別当」とみえる。この石井家は長狭郡坂東ばんどう(現鴨川市)の牧士で、その伝来由緒書によると、二代目が縫殿之助を称し、初代出羽と同様に里見氏の家来として「房州嶺岡御厩預相勤」てきたという。嶺岡厩で軍馬飼育され、その管理責任者が別当とよばれた石井二家であった。元和元年(一六一五)里見家の断絶に伴いその旧領は上知となり、嶺岡牧は幕府管轄下となった。このとき旧臣の一人石井五左衛門重家は召出され、二代将軍徳川秀忠に仕えて馬方となり、蔵米二〇〇俵を与えられた(由緒書)。重家の父は出羽守重宗で某年死没したとあり(寛政重修諸家譜)、初代出羽と同一人物と思われる。少なくとも坂東村の石井家の由縁の者であろう。

寛永一一年(一六三四)の房州ニ而御馬飼料之御帳(石井家文書)によると、馬二〇頭が坂東村の厩で飼育され、その飼料として一頭につき一年間に米四石一斗三升・大豆八石二斗六升と計算され、合計で米七四石七斗八升余・大豆一四九石五斗七升余。馬二〇頭が丸一年間飼育されたわけではなく、江戸に引かれていった馬もあって、飼料の量は最終的には日割計算がなされているため升以下の数値になるのであろう。同様の帳簿は寛永一三年分・同一四年分が伝存し、寛永一〇年代までは坂東村に厩が設けられ、軍馬の飼育が行われていたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の嶺岡牧の言及

【安房国】より

…1711年(正徳1)には北条藩主屋代忠位の家臣川井藤左衛門の圧政により万石騒動が起こったが,これは農民が勝利した一揆として名高い。27年(享保12)ころから享保改革の一環として長狭,平,朝夷3郡にまたがる嶺岡牧が幕府直轄で開かれた。嶺岡は古く里見氏の馬牧の地であったといわれる。…

【鴨川[市]】より

…人口3万1111(1995)。鎌倉時代に伊勢外宮領の東条御厨(みくりや)に属した地域で,戦国時代に里見氏が開き江戸時代に幕府の馬牧となった嶺岡牧の中心地でもあった。また江戸初期から漁業が盛んで今も県下有数の漁港である。…

【嶺岡山】より

…安房松島といわれる海岸の島々は嶺岡山地の延長。 一帯は戦国時代には里見氏の馬牧であったが,江戸時代に幕府直轄の嶺岡牧となった。嶺岡牧は長狭(ながさ)郡,平郡,朝夷(あさい)郡にまたがり,西一牧,西二牧,東上牧,東下牧,柱木牧の5牧に分かれていた。…

※「嶺岡牧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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