川合・大国荘(読み)かわいおおくにのしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「川合・大国荘」の意味・わかりやすい解説

川合・大国荘
かわいおおくにのしょう

伊勢(いせ)国多気(たけ)・飯野(いいの)両郡にまたがる東寺(とうじ)領荘園。荘域は現在の三重県松阪(まつさか)市南部、多気(たき)町北部、櫛田(くしだ)川、祓(はらい)川の流域を占める。両荘の立荘時の面積は、大国荘は185町9段余、川合荘は66町。勅施入(ちょくせにゅう)になる荘園で、川合荘(元は屋部親王家領)は803年(延暦22)、大国荘(元は布施内親王墾田(こんでん))は812年(弘仁3)に成立した。川合荘は散在的で大国荘の「荘外」施入勅旨田(せにゅうちょくしでん)という二次的な位置づけをされたため、両荘をあわせて川合・大国荘とよぶ。両荘ともその立地からしばしば河川の氾濫(はんらん)にみまわれ、立荘からわずか20年で大国荘はすでに常荒地(じょうこうち)83町、川成(かわなり)荒地35町が存在した。そのためたびたび飯野郡内の浪人が施入され、さらに経営の合理化の観点から大国荘内の公田(こうでん)を川合荘の荘田の一部と交換して大国荘の円田(えんでん)化(一円化)が図られた。その後10世紀前半には東寺の強引ともいえる荘立て直しがいちおう成功するが、田堵(たと)は伊勢神宮と結び抵抗した。以後1世紀余りの史料空白期があるが、11世紀後半にふたたび寺家使が下向し、荘園の再編と積極的な経営を推進しようとした。しかし、10、11世紀的な田堵請作(うけさく)体制を克服し、中世的名田(みょうでん)体制を十分確立することはできず、かえって荘田の押領(おうりょう)が頻発し、12世紀前半には両荘とも有名無実化してしまった。この荘の退転の原因は、両荘が伊勢神宮の神郡(しんぐん)である多気・飯野両郡内にあり、田堵や荘官が伊勢神宮の神官層の一族であったり、それらと因縁をもつことで自立化したためとみられる。その後、南北朝内乱で伊勢神宮の神郡支配が衰退すると、ふたたび復興され、少なくとも室町初期までは、東寺領荘園として存続したことが確認される。

[飯沼賢司]

『竹内理三著『寺領荘園の研究』(1942・吉川弘文館)』『村井康彦著『古代国家解体過程の研究』(1965・岩波書店)』

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