平安時代にみられる荘園(しょうえん)・国衙(こくが)領(公領)の請作(うけさく)者。かつては名主(みょうしゅ)と同じものとみられていたが、最近では名主の前段階的存在とみられている。9~10世紀の史料では主として田刀とみえる。この時代、領主は田地を田堵らに1年ごとに宛(あて)行い(散田(さんでん))、田堵らは請文(うけぶみ)(契約書)を提出してそれを請作した。このように、田堵らは請作地に対しては1年限りの耕作権しか有していなかったので、彼らの耕作権は弱く、請作者としての地位はきわめて不安定であった。しかし、耕作と地子(地代)納入のみが義務であり、人身的隷属関係はなかった。その点、田堵は人格的に自由な立場にあった。つまり、田堵は農業経営の専門家である。しかし他方で、1099年(康和1)丹波(たんば)国波々伯部(ははかべ)村(兵庫県城東町)の田堵らが先祖相伝の所領計25町八反余を感神院(祇園(ぎおん)社)に寄進したことなどからも知られるように、土地所有者としての側面ももっていた。この時代、収納の単位として名(みょう)があったが(その責任者が負名(ふみょう))、田堵と名(負名)の両者の性格が一体化するとともに名主へと発展したとみられている。
[中野栄夫]
平安時代にみられる荘園(公領)の請作(うけさく)者。かつては名主(みようしゆ)と同じものとみられていたが,最近では名主の前段階的存在とみられている。9~10世紀の史料では主として〈田刀〉とみえる。この時代,荘園領主は荘田を田堵らに1年ごとに充て行い(散田),田堵らは請文(うけぶみ)(契約書)を提出してそれを請作した。このように,田堵らは請作地に対しては1年限りの耕作権しか有していなかったので,彼らの耕作権は弱く,請作者としての地位はきわめて不安定であった。しかし,耕作と地子(地代)納入のみが義務であり,人身的隷属関係はなかった。その点,田堵は人格的に自由な立場にあった。つまり,田堵は農業経営の専門家であったが,その反面,1098年(承徳2)丹波国波々伯部(ははかべ)村の田堵らが先祖相伝の所領計25町8反余を感神院に寄進したことなどからも知られるように,土地所有者としての側面も併せもっていた。
この時代,収納の単位として名(みよう)があったが(その責任者が負名),田堵と名(負名)の両者の性格が一体化するとともに名主へと発展したとみられている。
執筆者:中野 栄夫
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「たとう・でんと」とも。田刀・田頭とも。平安時代の公領や荘園の請作者をさす語。本来は現地を意味する田頭の意というが,請作地に堵(かき)(垣)を結うことに語源を求める説もある。田堵は「諸方兼作」といって複数の領主と契約を行う存在で,春先に請文を提出して田地をあてがわれ,1年契約で地子(じし)経営(請作)した。また納税責任を名(な)に負っていたのでしばしば負名(ふみょう)とよばれた。私財を蓄えて力田の輩(りきでんのともがら)と称されるような富裕な農民が,荘園・公領の開発・経営を請け負う専門農業経営者として9世紀半ばに登場し,その請作規模に応じて大名(だいみょう)または小名とよぶこともあった。請作の継続から田堵の土地占有権が強化され,これが領主の万雑公事(まんぞうくじ)・夫役の増徴強化策とあいまって,田堵は11世紀以後耕作地が固定される名主(みょうしゅ)となっていく。
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…9世紀後半から10世紀にかけて,国家の営田や荘園において,いわゆる地子田経営がおこなわれるようになる。これは当時〈力田之輩〉とか〈有能借佃者〉〈堪百姓〉などと呼ばれる有力農民=田堵(たと)の成長が見られたのに応じて,律令国家・国衙や荘園領主が彼らに田地を割り当てて耕営せしめ,地子(じし)を弁進させた経営方式である。この場合,領主側が土地をあてがうことを〈散田(さんでん)〉と称し,これに対して田堵は当該田地を預かり相違なく地子を弁進する旨誓約した文書=請文(うけぶみ)を提出して耕営に従事したのであり,これが請作である。…
…律令制の口分田(くぶんでん)・公田をその前身とし,平安時代10世紀の国制改革を経て成立した王朝国家体制下の公田に始まる。その支配方式は,国司が国内郡郷の公田数を検田帳や国図によって把握し,〈名(みよう)〉を単位として負名あるいは田堵(たと)と呼ばれる大小の経営者に公田の耕作を請け負わせ,〈名〉の田数に応じて租税官物,諸雑事等を賦課し,これを徴収することを基本とした。国衙には税所,田所,調所,出納所,検非違所などの諸機関が設けられ,ここに配属された在庁官人,書生らや国司の下す諸国使が,国内の郡司,郷司,刀禰らを召集して,公田に対する勧農,検田,収納などもろもろの国務を遂行した。…
…彼らの請作権を作手(つくて∥さくて)という。作人といっても必ずしも直接耕作者ではなく,平安時代の作人はおおむね田堵(たと)と称せられた地主的有力者であった。例えば11世紀末期の東寺領伊勢国川合荘の作人荒木田延能は,大神宮権禰宜で従五位上の位階を有し,吉友・諸枝らの従者を従える田堵であった。…
…このように編戸にもとづく公民制,良賤・華夷の差別を維持することが,律令制支配の根幹であったが,一般公民の浮浪・逃亡,奴婢の解放,蝦夷の征服と抵抗が進行するにともなって,律令制はしだいに変質・解体していく。とくに班田収授が行われなくなった公田や初期荘園において,〈土人・浪人を論ぜず〉に農人を定め,彼らを堪百姓,負名(ふみよう),田堵(たと),作人(さくにん)などと呼び,こうして生まれた新たな公民,荘民らが,王朝貴族支配下の百姓となった。彼らは公田,荘田を大小の〈名(みよう)〉に分割して経営し,名田に課せられる官物(かんもつ),地子(じし)の納入責任を負うが,令制下の公民のような人身支配をうけず,移動・居住の自由をみとめられ,百姓治田など私財を所有し,権利侵害や非法苛政に対して訴訟や上訴を行うことができた。…
…中世の荘園公領の耕地を分割した名田(みようでん)(名)を占有し,それを単位として課せられる年貢・公事(くじ)等の納入責任を負った農業経営者をいう。律令制下では戸籍計帳に編成された〈戸〉が支配と収取の単位であったが,班田制と籍帳支配が崩壊すると,代わって〈名(みよう)〉があらわれ,平安時代の10世紀以降は,国衙の支配する公田を分割して請け負う大小の田堵(たと)が公民となり,〈負名(ふみよう)〉と呼ばれた。またこれに対応して荘園でも田堵や作人(さくにん)の請作地を〈名〉と称するようになった。…
※「田堵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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