川関村(読み)かわぜきむら

日本歴史地名大系 「川関村」の解説

川関村
かわぜきむら

[現在地名]亀岡市千代川ちよかわ町川関

丹後道沿いにあり、北は船井郡八木やぎ(現八木町)、南は千原ちわら村、東は南流する大堰おおい川、西は山に沿う。集落は上下に分れ、上川関は新田であった(丹波志桑船記)。上川関の山麓地帯には三十数基の後期古墳が認められる。

当地を「延喜式」(木工寮)に記される「丹波国滝額津」に比定する説があるが、滝額津たきぬつ保津ほづにあてる説もあって判然しない。室町時代の様子を描くとされる丹波国吉富庄絵図(真継梶之助家蔵)には、大堰川が天曳あまびき(現園部川)を合わせ亀岡盆地へ流入する左岸に「川関所」と記されている。この川関所近くに「国八庁」とあり、川関の北から西北にかけて国衙と思われる建物が八棟描かれる。国衙の足下にある関として、大堰川の河川交通や筏流を統制監督する役所が置かれていたのであろう。


川関村
かわぜきむら

[現在地名]有漢上有漢かみうかん

現町域の北東最奥部に位置し、川関川の流域を占める。東は備前国溝部みぞべ(現御津郡加茂川町)。寛永備中国絵図・正保郷帳にみえる上有漢村に含まれ、正保郷帳では同村の枝村として村名がみえる。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)によれば、古高五二四石余・新高七二四石余。天保一三年(一八四二)の家数七〇(「検地帳写」大月文書)


川関村
かわせきむら

[現在地名]那智勝浦町川関

ひかりヶ峯の南方支脈の南麓にある。東は狗子川くじのかわ村、南ははまみや村。「続風土記」は「井関と同義なり」と記す。応永一四年(一四〇七)七月晦日付の旦那売券(米良文書)に「かわせき廊屋の六郎」の名がみえ、また同一八年二月晦日付の甲斐国旦那去渡状(同文書)にも「かうせきのらうや」とみえる。同二八年八月一〇日の執行道珍跡配分目録写(同文書)には道珍より寛宝房が配分された田数のなかに「河関廊屋後壱貫田一反」がある。


川関村
かわせきむら

[現在地名]大飯町安川やすかわ

佐分利さぶり川左岸にあり、西は安井やすい村。「若狭郡県志」に「川関村属佐分利郷、去小浜五里半許也」とある。正保郷帳によれば田方五三石余・畠方五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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