安井村(読み)やすいむら

日本歴史地名大系 「安井村」の解説

安井村
やすいむら

[現在地名]右京区太秦うずまさ安井〈池田いけだ町・一町田いつちようでん町・馬塚うまづか町・奥畑おくはた町・春日かすが町・北御所きたごしよ町・車道くるまみち町・小山こやま町・辰巳たつみ町・つじうち町・西裏にしうら町・西沢にしざわ町・二条裏にじよううら町・東裏ひがしうら町・ふじ町・松本まつもと町・水戸田みとでん町・柳通やなぎどおり町〉

東は西京にしのきよう(現中京区)、西は太秦中里うずまさなかざと、南はやまうち、北は法金剛院ほうこんごういん木辻きつじの各村と接する。土地は平坦で、村の北を西南に宇多うた川が、西境を御室おむろ川が流れる。

平安京の条坊では右京二条四坊の大部分と、三条四坊北半分にあたる。現太秦安井奥畑うずまさやすいおくはた町の辺りを南北に西京極大路が通り、村中央部少し南を東西に二条大路が通っていた。現在でもこの二条大路南にあたる地に二条裏町の名が残る。また安井と洛中を東西に結ぶ現太子道たいしみち大炊御門おおいのみかど大路であった。

「拾芥抄」西京図によれば平安時代、三条四坊のうち一町(現太秦安井水戸田町)は春宮大夫領の一部、八町(現太秦安井二条裏町)雅楽うた町、九町・一六町(現太秦安井西沢町付近)は左兵衛府町があった。


安井村
やすいむら

[現在地名]八東町安井宿やすいじゆく

日下部くさかべ村の北東、八東川北岸に位置する若桜わかさ往来の宿村。貞和二年(一三四六)閏九月一七日の足利直義下知状案(新興寺文書)とこれをうけた同年一〇月一八日の上杉重能施行状(同文書)に、東方に所在する新興しんごう寺を含んだ安井保を得た青木六郎左衛門尉実俊で、実俊は新興寺領の山で狩猟を行い、木を伐り取ったとして同寺別当権律師幸舜から訴えられている。

藩政期の拝領高は八〇六石余。元禄二年(一六八九)当村民が野町のまち(現郡家町)の山へ草刈に入り、切畑を荒して訴えられ、当村庄屋・年寄は連名で詫状を出している(中村家文書)。元禄郷帳によると高九二〇石余。本免五ツ一分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高九六〇石、竈数九六。「因幡志」では家数一四七、土産に莨がある。産土神は浅崎大明神。


安井村
やすいむら

[現在地名]小松町安井

道前平野の西南端に位置する。東は赤尾あかお村に、南は楠窪くすくぼ(現丹原町)に、西は寺尾てらお(現丹原町)赤尾村飛地(字安養寺)に、北は田野たの村・長野ながの(現丹原町)に接する。村の北端を中山なかやま川が東北に流れ、南は山を背負い、その間に細長い田地がある。金比羅道が東西に走る。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「高百八拾壱石壱斗九升田方百四拾三石七斗五升壱合 畠方三拾七石四斗三升九合 安井村 日損所、林山有、小川有」とあり、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記にも同石高で松平隠岐守知行とあり、天保郷帳でもほとんど石高に変化がない。


安井村
やすいむら

[現在地名]北区安井・鳩岡はとおか川中かわなか町・金田かねだ町・天道てんどう町・大野おおの町・長喜ながき

北を成願寺じようがんじ村と接する。もとは矢田やだ川の南岸の地であったが、矢田川の河道は成願寺村の北に移った。この旧矢田川が古代・中世には春部かすがべ郡と山田やまだ郡の境で、南側の当村は山田郡に属していた。ところが、「管春部安食郷内 南山田郡界・河」と明記する康治二年(一一四三)の尾張国安食荘立券文(醍醐寺文書)に「安井里」一町がある。平安時代にはさらに南を矢田川が流れていたのであろうか。


安井村
やすいむら

[現在地名]柵原町安井

百々どうどう村の北に位置し、北と東は宮山みややま村、北は馬伏まぶし村で、両村とおなだに(尾長谷)から流れる三つの小川が当村高橋たかはしで落合い、百々村に流れる。正保郷帳に村名がみえ、田八一石・畑五一石。元禄二年(一六八九)の差出控(弓斎収集史料)では高一七三石余、戸数四二(うち本百姓一四・名子家来二八)。「東作誌」では家数四七、男一一三・女八九。溜池は女ヶ谷・小松山・フルイ谷など五ヵ所。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は上間うわま村と同様。貞享三年(一六八六)尾長谷池の普請に際しては、当村庄屋の与三左衛門が責任者となり、人夫は当村一六七人、宮山村一一二人、馬伏村一一四人、黒坂くろさか(現勝田郡勝央町)三五人などを動員した(近世作南農村史料)


安井村
やすいむら

[現在地名]大飯町安川やすかわ

佐分利さぶり川の左岸にあり、東は川関かわせき村。「若狭郡県志」に「安井村属佐分利郷、去小浜五里許也」とある。当村については天正一五年(一五八七)一〇月二〇日付の浅野長政禁制(浄土寺文書)がある。


安井村
やすいむら

[現在地名]福知山市字安井

由良川右岸、おにじようの西麓、高浜街道に沿う集落。古代は「和名抄」に記す奄我あんが郷、中世は奄我庄の地とされる。近世の安井村については「丹波志」に「安井村 入組安部丹波守領武田越前守領 高二百四十三石弐斗四升九合 今高同上 民家五十戸 万治二年松平公検地 山林延宝六年小出伊勢守殿検地高附」とある。

由良川を挟んで対する上天津かみあまづ村の元大庄屋須藤次郎左衛門家に、まき川尻の土地について、上天津村と当村とで争った時の記録(天津文書)がある。


安井村
やすいむら

[現在地名]丹波町字安井

鎌倉かまくら(高岡村)の西北に位置し、東はたに村、西は小野この(現瑞穂町)、北は中台ちゆうだい(現瑞穂町)。西にひつヶ嶽(五八二・一メートル)がそびえ、その稜線が村の南と北に連なり、わずかに東が開ける。山中よりの水は曾根そね川となり、高屋たかや川に合流する。当村と谷村、下流のもり村は上三箇とよばれたと思われる(→谷村

亀山藩領。塩田しおたの谷奥を占めるので、郷帳類には「塩田」を冠して記される。


安井村
やすいむら

[現在地名]湯原町本庄ほんじよう 安井

上岸かみぎし村の西、鉄山かねやま川の中流域左岸に位置し、西は石内いしうち村、東は小谷こだに村。正保郷帳によれば田高四一石余・畑高二一石余、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高二三石余・開高一石余。領主の交替は仲間なかま村に同じ。宝暦一四年(一七六四)の村明細帳(矢吹文書)によれば、高山の下にある谷深き村で、反別は田畑とも各三町四反余、毛付高六九石余、家数一一・人数三六、牛一。入作高は四六石余で、他村からの入作が多くみられる。


安井村
やすいむら

[現在地名]美里町安井

福田ふくだ村の南に位置し、南の飯盛いいもり峠から北流する小流が東の野中のなか村との境をなす。村名の由来を「続風土記」は、村内祇園社の「森の傍に大井戸といふ湧泉あり、大師の作といふ、田地十八石を養ふ、此水より村名起る」と記す。文保三年(一三一九)正月二一日付の大法師良寿田畠充文案(又続宝簡集)に「水田壱段 分米一石二斗 神野庄字安井、畠 麦陸斗 字同前」とあり、「右件田畠者、先師相伝私領也、而依為門徒、任長帳之旨、所奉譲渡空達房入寺也」とある。また元亨三年(一三二三)八月二六日の権律師隆実御影堂陀羅尼田寄進状(続宝簡集)に「合壱段者作人市二郎大夫、定田米壱石・麦二斗高野山領神野庄内安井」とある。


安井村
やすいむら

[現在地名]龍神村安井

日高川沿いの山間の村。北東は西にし村、東は日高川を挟んでひがし村。「続風土記」に「村六ツに分かれ小名下ノ町上ノ町御霊町ちます町安井垣内四坊谷と云ふ」とあり、町名を名乗った地域があった。慶長検地高目録では村高二六九石余、小物成三・一七五石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によると田畑二三町四反余で、村高二八〇石余、家数四八、人数二三三。山間地としては生産力も高く、家数に比較して村高も高い。家数の内訳をみると本役が二四と半数を占め、半役一二・無役一一・庄屋一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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