己酉約条(読み)きゆうやくじょう

改訂新版 世界大百科事典 「己酉約条」の意味・わかりやすい解説

己酉約条 (きゆうやくじょう)

1609年(慶長14)朝鮮対馬の大名宗義智に与えた通交貿易上の諸規定。同年が己酉の年に当たるのでこの名があり,己酉条約慶長条約ともいう。全13ヵ条で,宗氏への米・大豆の賜給,日本からの使節接待法,宗氏の歳遣船数などを細かく規定。通交方法・条文の構成などは中世以来のものを踏襲しているが,内容は文禄・慶長の役の影響で,通交者を日本国王(徳川将軍),対馬島主(宗氏),対馬島受職人(対馬の朝鮮官職を授けられた者)に限り,歳遣船数を20隻に減らす(戦前は30隻)など,対馬にとって不利となった。同時に寄港地も釜山1港に限られた(戦前は3港)。しかしこれによって対馬は文禄・慶長の役以後とだえていた朝鮮との通交貿易を再開し,また宗氏のみを日朝外交の窓口とする慣行が成立していく。以来この約条は1872年(明治5)まで,日朝関係の基本的な条約として機能する。条文は《通文館志》第6巻所収。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「己酉約条」の解説

己酉約条
きゆうやくじょう

慶長条約とも。1609年(慶長14)朝鮮王朝と対馬島主宗氏との間で結ばれた条約。己酉は成立年の干支。15世紀以来の朝鮮・対馬間の諸約条に準拠し,日本から朝鮮へ渡航する使者の資格や船,接待に関して定めたもの。これにより対馬は朝鮮との貿易を再開したが文禄・慶長の役による関係断絶後だけに,従来以上にきびしい制約が設けられ,対馬から朝鮮への島主歳遣船(さいけんせん)は20隻に限定された。その後対馬国府中藩では各種の名目で渡航船の増加を図るが,明治初期,外務省同藩の外交業務を接収するまでは,効力をもっていた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「己酉約条」の解説

己酉約条
きゆうやくじょう

1609年,対馬の宗氏が朝鮮と結んだ条約。慶長条約ともいう。

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世界大百科事典(旧版)内の己酉約条の言及

【日朝貿易】より

…役後8年間にわたる困難な講和交渉の末,1607年(慶長12)朝鮮国王の使者が来日し,徳川氏による交隣関係の回復がはかられた。これによって対馬からの通交貿易も,09年己酉(きゆう)約条締結とともに開始され,宗氏の特殊な位置が,近世に至ってもなお継続されることになった。しかし今回の条約により,歳遣船が20隻に減らされ,本来はこの定約外にあった特送船(特殊な任務をおびて派遣される使船)も3隻に限られ,歳遣船数の内に入れられてしまった。…

※「己酉約条」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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