15世紀の中ごろから19世紀の中ごろまで,毎年一定の数を限って日本から朝鮮に渡航することを朝鮮から許されていた船。歳船ともいう。本来は朝鮮との修好のために渡航した船であったが,使人としての待遇をうけるとともに貿易をすることを許されていたので,実質は使船というよりも貿易船と呼ぶのがふさわしいものであった。1424年(応永31・朝鮮世宗6)に九州探題渋川義俊が朝鮮に提案して毎年2隻ずつ船を送ることを約したのが歳遣船の起源とされ,40年(永享12・世宗22)に小早川持平が毎年歳遣船を送ることを許されたのが記録上の初見とされている。43年(嘉吉3・世宗25)の嘉吉条約では,対馬島主の歳遣船は50隻,やむをえぬ報告を必要とする事件が起きたときは規定外に特送船を渡航させることができると規定された。親日政策をとった世宗の末年から歳遣船の定約者は日本の各地に広がり,71年(文明3・成宗2)申叔舟(しんしゆくしゆう)の撰した《海東諸国紀》では,宗氏の50隻のほかに宗氏一族の7隻,4隻,3隻などを特例とし,一般通交者で毎年1隻か2隻をみとめられたもの14名,1隻だけみとめられたもの27名が記されている。成宗の時代になると,歳遣船往来者の名義詐称を防ぐために,すべての定約者は同時に受図書人にするように定められた。
1510年(永正7・中宗5)の三浦(さんぽ)の乱によって,対馬と朝鮮との通交関係が断絶し,12年に至ってようやく修好が回復したが,宗氏の歳遣船は25隻に半減され,特送船の渡航はみとめられず,九州や中国地方の受図書人・受職人は再審査して数を減らされた(壬申約条)。44年(天文13・中宗39)には甲辰蛇梁の変が起こり,ふたたび通交関係は断絶,47年(天文16・明宗2)に丁未(ていび)約条が成立した。内容は対馬島主の歳遣船25隻はみとめるが,50年以前の名義の受図書人と受職人の通交はさしとめるというものであった。55年(弘治1・明宗10)日本の五島を根拠地としていた明人王直らの海寇集団が朝鮮の南岸で行動した乙卯達梁倭変が起こり,宗氏はこの機をとらえて海賊の取締りと情報を提供することによって57年(弘治3・明宗12)の丁巳(ていし)約条で歳遣船数を30隻に増加することに成功した。その後も宗氏はつねに歳遣船の増加を朝鮮側に求めつづけたが受け入れられなかった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵により,日朝間の通交は破滅の状態となり,1609年(慶長14・光海君1)になって己酉(きゆう)約条が成立し,ようやく平和が回復されたが宗氏の歳遣船は特送船をふくめて20隻に制限された。以後江戸時代には歳遣船数の増加はみとめられなかったので,宗氏は参判使の派遣などで歳遣船以外の船を渡航させる努力を続けて明治維新にいたった。
→日朝貿易
執筆者:田中 健夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
歳船とも。室町~江戸時代,朝鮮へ派遣した日本船(送使船)のうち年間の派遣船数が定められたもの。送使船には,朝鮮から過海料や留浦料が支給され,貿易が許されたためその数が増加。応接経費の増大により,朝鮮は通交者ごとに歳遣船定約を結び,年間の派遣船数を限定した。1424年(応永31)九州探題渋川義俊が毎年2隻ずつの派遣を朝鮮に提案したのが始まりで,最初の記録は40年(永享12)小早川持平(もちひら)が毎年1隻の派遣を認められたもの。43年(嘉吉3)の癸亥(きがい)約条で対馬島主宗氏は50隻とされた。以後宗氏の一族は7隻・4隻・3隻など,他の諸氏は1隻または1~2隻などに定められた。70年代にはすべての歳遣船定約者は受図書人(じゅとしょにん)になる。三浦(さんぽ)の乱後,宗氏の歳遣船は1512年(永正9)の壬申(じんしん)約条と47年(天文16)の丁未(ていび)約条で25隻,57年(弘治3)の丁巳(ていし)約条で30隻に決定。文禄・慶長の役後,1609年(慶長14)の己酉(きゆう)約条で宗氏の歳遣船は20隻に制限された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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