デジタル大辞泉 「干支」の意味・読み・例文・類語
え‐と【干=支】
1
2 十干を省略し、十二支だけで表した年。
[補説]干支順位表
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
十干十二支のこと。古くは十日十二辰,十母十二子などともいった。日本では〈えと〉と呼ぶ。中国やアジアの漢字文化圏において,年・月・日・時や方位,さらにはことがらの順序をあらわすのにも用いられた。また,陰陽五行説などと結合してさまざまな占いや呪術にも応用された。十干は甲(こう)・乙(おつ)/(いつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き),十二支は,子(し)・丑(ちゆう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゆつ)・亥(がい)。干は幹,支は枝の意だという。十干と十二支の個々の文字の意味はよくわからぬが,どちらも植物が季節の推移にしたがって変化してゆくさまをあらわすとする説がある。中国では,西方の文明が1月を四分して7日(週)をサイクルとしたのに対して,三分して10日(旬(じゆん))とする日の数え方が古く殷代には行われていた。甲骨文に卜旬とあって,ある日から向こう10日間の吉凶を占った。十干はその10日の順序符号である。十二支も12月の呼び名として殷代に考案されたらしい。この両者を組みあわせて六十干支とし,それによって日を記すこともすでに殷代には行われており,六十干支表は甲骨文に残っている(図3参照)。ただ年月は順序数を使用していた。
十干と十二支の組みあわせは当然120通りできるはずだが,その半分にとどめたのは,120日のサイクルでは長すぎると思われたからであろう。その規則は,十干を甲乙・丙丁・戊己・庚辛・壬癸の5組とし,それに配すべき十二支は,その1組の一方と組めば他の一方とは組まない,というものであった。たとえば〈甲子〉〈乙丑〉という組みあわせはあっても,〈甲丑〉〈乙子〉というのはない(表参照)。この六十干支は戦国時代以降,日のみならず年や月の表示法としても使われるようになる。前104年に官暦第1号として太初暦が公布されたが,当時はこの年を丙子と数えた。後には丁丑に改められ,それ以後,干支表の順に年を数えて現在に至っている。中国暦では冬至を含む月を11月とすることが一般に行われ,この月を子月と呼び,以下12月を丑月,正月を寅月と呼んだ。こうした呼称は漢代以前からあったが,さらに月名に十干を加えることは,おそくとも唐代に行われていた。その配当は年の干名によって各月の干名が決定された。いま正月にあたる寅月についていえば,甲己年-丙,乙庚年-戊,丙辛年-庚,丁壬年-壬,戊癸年-甲,となる。例えば干名が甲である年の寅月は丙寅月と呼ばれた。現在日本でも干支紀年法は多少は残っていて,たとえば年賀状に西暦の代わりに干支で年号を書く人もいるし,還暦(自分の生れ年の干支にもどること,数えの61歳)という言葉はまだ生きている。甲子園は甲子の年(1924)にできたのでその名がある。1日の時間を12等分して(十二時)十二支名で呼ぶことも漢代から始まった。陰陽五行説と結びつくのは戦国時代のことで,十干を前述のように5組にわけ,その5組に木・火・土・金・水を配当した。漢代の文献では,十干の5組の奇数番のものを剛日,偶数番のものを柔日として区別している。
日本では剛(陽)を〈え(兄)〉とし柔(陰)を〈と(弟)〉とし,五行を加味して十干を次のように呼ぶ。木-甲(きのえ)・乙(きのと),火-丙(ひのえ)・丁(ひのと),土-戊(つちのえ)・己(つちのと),金-庚(かのえ)・辛(かのと),水-壬(みずのえ)・癸(みずのと)。したがって〈えと〉はもともと十干の呼称であって,十干十二支の意で用いられたり,今日十二支の動物名の代名詞のごとき使われ方がなされているのは,ほんらいの意味からすれば誤用なのである。十二支と十二獣がいつから結びついたのか定かではないが,近年,湖北省の雲夢睡虎地の秦墓から出土した竹簡に含まれている《日書》には,現在行われているものとほぼ同様な動物名が十二支にあてられている。そして後漢の王充《論衡》物勢篇には,われわれのいう〈えと〉と同じものがすでに出そろっている。また,そこでは十二支が五行にも配当されている。十二支の十二獣への配当は,和訓もあわせて記せば次のようになる。子(ね)-鼠,丑(うし)-牛,寅(とら)-虎,卯(う)-兎,辰(たつ)-竜,巳(み)-蛇,午(うま)-馬,未(ひつじ)-羊,申(さる)-猿,酉(とり)-鶏,戌(いぬ)-犬,亥(い)-豕。十二支獣には西方天文学の十二獣帯(黄道十二宮)の影響があるともいわれ,これが十二支と結合したのは,農民に農事暦を理解させるための便法だともいわれるが,たしかなことはよくわかっていない。十二支が方位と結合するのはおそらく漢代のことであろう。漢代には《易》の解釈学のひとつとして〈象数易〉が流行したが,そこでは,《易》の卦爻(かこう)に十二月,十二律(音律),十二辰(支),二十四節気,五行,方位などが配当され,複雑な理論が作りあげられている。干支は一方でさまざまな俗信を生み出した。そのうち日本で独自に発達したものや,暦注などに使われて今なお信じられているもののいくつかを紹介してみよう。
(1)辛酉(しんゆう)革命,甲子革命 中国の緯書(いしよ)にみえる予言説。中国よりも日本で信じられ,この年になると改元が行われた。(2)丙午(ひのえうま) 陰陽五行説によれば丙も午も火になるので,この年生れの女性は気性が激しく,夫の運勢を圧倒しその生命もちぢめるという。(3)庚申(こうしん) 中国の道教によれば,人の体内に三尸(さんし)という悪霊がすんでおり,庚申の日になると天にのぼって主人の過失を司命(生死をつかさどる神)に告げるので,そうさせないためにこの日には徹夜をせねばならないとされた。これを〈守庚申〉というが,日本に入ってくるともとの意味がいつしか忘れ去られ,庚申という日が〈庚申さん〉として神格化される一方,〈守庚申〉も単なる徹夜の集いになった。(4)十方暮(じつぽうくれ) 六十干支の第21番目の甲申の日から30番目の癸巳の日までの10日間。このうちの間日(まび)(丙戌と己丑)以外を凶日とする。(5)三隣亡(さんりんぼう) 1月・4月・7月・10月の亥の日,2月・5月・8月・11月の寅の日,3月・6月・9月・12月の午の日。これらの日には建築関係の仕事を忌む。(6)三伏(さんぷく) 夏至以後3度目の庚の日(初伏),4度目の庚の日(中伏),立秋以後最初の庚の日(末伏)を凶日とする。(7)十二直 十二支と別の12のサイクルとを組みあわせてカレンダーを作り,日の吉凶を占うもの。十二直は建・除・満・平・定・執・破・危・成・収・開・閉。中国では漢代に始まっている。十二直で占う占師を建除家という。
執筆者:三浦 国雄+藪内 清
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
字通「干」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
「えと」とも。十干と十二支のこと,またそれを組み合わせた六十干支の略。六十干支は,十干の最初の甲(きのえ)と十二支の最初の子(ね)とからなる甲子に始まり,乙丑,丙寅と進んで癸亥に至る。奇数番は奇数番,偶数番は偶数番としかくみあわされない。六十干支は年・月・日に配され,無限に循環する東アジア独特の紀年法として用いられてきた。日本では6~7世紀に年号に先だって用いられ,のちには併用された。干支は五行説と結合して吉凶が付会され,辛酉(しんゆう)革命・甲子(かっし)革令とか丙午(ひのえうま)年生れといった迷信や,暦日の禁忌・吉事注などのもととなった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 占い学校 アカデメイア・カレッジ占い用語集について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…十二支も12月の呼び名として殷代に考案されたらしい。この両者を組みあわせて六十干支とし,それによって日を記すこともすでに殷代には行われており,六十干支表は甲骨文に残っている(図2参照)。ただ年月は順序数を使用していた。…
※「干支」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新