市野原村
いちのはるむら
[現在地名]清和村市ノ原
北と東は仮屋村、南は鎌野村に接する大矢川支流の黒峰川沿いの村。村の北辺を日向往還が通る。大河村・井牟田村の六地蔵、飯蓋城をはじめとする中世城跡からみて、阿蘇から当村を経て日向国の鞍岡(現宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町)・椎葉(現同東臼杵郡椎葉村)への南北交通路が、かなり早く発達していたものと推定される。文明四年(一四七二)八月二八日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(阿蘇家文書)に「一のはる」とあり、家数一六と記している。
市野原村
いちのはらむら
[現在地名]光町市野原
香取郡に属し、同郡宝米村の北東に位置する。中世は匝瑳南条庄に属したとみられる。天正期(一五七三―九二)と推定される年月日未詳の領知目録写(神保文書)に「六貫 貝塚一原」とみえ、当地は貝塚(現八日市場市)とともに坂田城(現横芝町)城主井田氏の支配下に属し、その家臣(三谷氏か)が両村内に合せて六貫文の知行地を有していた。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に一ノ原とみえ、高七四石、荒井組に属し、旗本稲垣領。
市野原村
いちのはらむら
[現在地名]大田市大田町野城
川合村の北東に位置し、東は円城寺村、西は大田南村。古くから円城寺村と合せて野城地区といわれ、両村を貫流する三瓶川は野城川とも称された。観応三年(一三五二)一〇月三〇日の足利直冬感状(閥閲録)に「石見国野城」とみえ、足利直冬は周布内兼成に対し野城での戦功を謝している。正保国絵図に市原村とみえ、高一二九石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によると田方一一九石余・畑方一八石余、年貢高は米六五石余・銀一四八匁余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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